白い鳥居を潜って



             

                            夏が近づく梅雨の時期。
                            今日は朝から珍しく青空が広がり、梅雨時期の必需品である折りたたみ傘を鞄に入れなかった事を酷く悔やむ少女が居た。

                            「今日は傘の心配はないって言っていたじゃん……」

                            学生にとって嬉しい放課後の時間に、渡り廊下で雨宿りをしている和泉 絢香が呟いた。
                            天気予報に憾み言を呟いても雨は一向に収まらず、雨脚は強くなるばかり。
                            帰りたくても足止めを食らって帰れないもどかしさに、絢香は溜息を吐いた。

                            「……いつまで置いておくんだろ?」

                            渡り廊下の窓から外を眺めていた絢香は、不意に眼に入った木造建ての旧校舎を眺め始めた。
                            この木造の旧校舎は戦前に建てられた物らしく、戦時中は日本軍の病院施設として使われていた経緯がある。
                            その為か、昼間でさえ薄暗く感じている建物が今日のような雨が降った日は墓場に建っているのかと感じるくらい物々しい
                            雰囲気を醸し出していた。

                            「……ちょっとだけ、入ってみようかな?」

                            普段なら絶対にそんなことは思ったりしないだろう。
                            だが、暇を持て余していた絢香はむしょうにあの旧校舎の中へ入りたい気持ちに駆られた。
                            この木造旧校舎は、学校の怪談話によく登場する。
                            真夜中に、死んだ日本兵の幽霊がでるとか。
                            放課後に、閉じ込められた女の子の幽霊が窓に映るとか。
                            挙げだしたらきりがない程、よく怪談話が出てくる。
                            そうゆう興味もあったのか、絢香は旧校舎へと近づき窓を見上げた。

                            「映るわけないか…」

                            埃で曇った普通の窓を眺めながら、絢香は呟く。
                            その瞬間、古い扉の蝶番が『キィ…』っと甲高い音を鳴らした。
                            雨音しか聞こえなかった所へ、突如聞こえたこの甲高い音に絢香は身を強張らせる。

                            「び、びっくりしたぁ〜。風かぁ……」

                            扉を動かした原因は風だと解ると、絢香はほっと胸を撫で下ろす。
                            ふと、見ると壊れた立ち入り禁止の立て札が見えた。
                            今までにも、何人もの人がこの中へ肝試しに入ったのだろう。
                            その立て札は二つに壊され、隅の方へ追いやられていた。

                            「せっかくここまで来たんだし……」

                            生来持つ好奇心が心を揺さぶり、雨宿りがてら中へ入ることにした。
                            一歩足を踏み入れると、埃とカビ臭さが鼻腔を通り古い物の匂いがする。
                            絢香には、この場所だけ異空間であるような錯覚を覚えた。

                            絢香は一人、奥へ進む。
                            歩くたびに、足元の埃が舞い、木板が軋む音が聞こえた。
                            窓を見ると、未だ静かに水滴を打ち付ける。
                            雨が止む気配は無かった。
                            不意に生暖かい風が絢香の横を通り過ぎ、振り返る。
                            眼に映った物を理解した絢香は、心の底から興味本位でこの旧校舎に入った事を後悔した。

                            さっき絢香が歩いてきた方向に、色あせたボロボロの白衣を身に纏った戦時中の看護婦がぼうっと立っていた。
                            右手には銅色に錆付いた包丁を持ち、左手には人間の内臓が入ったバケツを持ってた井出たちに絢香の背中から冷や汗が
                            滝のように流れる。
                            絢香の眼には、生まれて初めて幽霊と呼ばれる物が映り込む。
                            絢香は、夏場には頻繁に特番が組まれる心霊番組を見るのが好きだった。
                            テレビの前で放送される他人事の体験を聞くと、好奇心が擽られる。
                            だが、今この瞬間に起こっている事はテレビの話でも他人の実体験でもなかった。
                            看護婦の、死んだ皮膚や爪がむき出しになった裸足がゆらりと一歩踏み出す。
                            絢香は叫ぶ事も忘れ、何かに憑かれたように一目散に走り出した。

                            荒れて障害物だらけの校舎内を、駆け抜け老朽化で底が抜けた階段を手すりに掴まりつつ上へ上へと駆け上がる。
                            どこかの空き部屋を見つけると、絢香は駆け込み引き戸を閉め、バリケードを張った。
                            気配や物音は無い。
                            しかし、絢香は『あの幽霊は自分を追ってきている』と感じずには居られなかった。
                            絢香は物陰に隠れ、息を殺してあの看護婦の幽霊が通り過ぎるのを待つ。
                            居なくなったのを見計らい、入り口へ戻ろうと考えたのだ。
                            しかし、待てっても待てっても通り過ぎる気配が感じられない。
                            痺れを切らした絢香はゆっくりと顔を出した。

                            『…な…い… … … … …』
                            「…………」

                            黒く落ち窪んだ眼球のない顔が覗き込み、蛆虫が食い荒らす唇が動き不快な声を紡ぎ出す。
                            最初の二言以降は恐怖にかき消され、限界に達した絢香は眼を見開いて固まってしまった。
                            錆びつき、刃先が欠けた包丁が振り上げられる。
                            絢香にはこの一連の動作が、スローモーションをかけたように酷くゆっくりと感じられた。
                            絢香が諦めて眼を硬く閉じたその時、鈴のような耳に心地よい甲高い金属音が鳴り響く。
                            その音に止められたように、振り下ろされる包丁の動きはピタリと止まり看護婦の幽霊がもがき苦しみ始めた。
                            絢香は、魂が強く引っ張られるような感じに襲われ、この鈴のような音から意識を逸らせなくなる。

                            「怪我はないか?」

                            ふと気がつくと、真っ白な白衣の背中が見えた。
                            絢香に声をかけた相手が肩越しに振り返る。

                            「あ、甘城先生」

                            白衣に金の錫杖を持った奇妙な出で立ちで立っていたのは、校医の甘城 優(あましろ すぐる)であった。

                            「散れ」

                            錫杖の先を看護婦の幽霊に向け、甘城の静かな声が響く。
                            絢香は、その声を聞くと水面に波紋が広がる心地になった。
                            看護婦の幽霊は、奇怪な悲鳴を上げて消え去る。

                            「き、消えた……」

                            恐怖心からようやく解き放たれた絢香は、力なくその場に座り込んだ。

                            「まだだ。一時的にこの場から引き離しただけ、すぐに戻って来るぞ」

                            甘城は、絢香と向かい合うようにして正座をする。

                            「早くここから逃げないと」
                            「落ち着け、奴はお前を狙っている。たとえ、ここから外に出ても同じだ。あれは縛霊の類ではない」
                            「バク…レイ?」

                            聞きなれない言葉に絢香は首を傾げる。

                            「その土地や場所、時間に恨みや思いを残して離れられない悪霊の事だ。お前の好きなテレビで言う所の地縛霊の事だ」

                            時間がないのか、甘城は早口で簡単に説明する。

                            「じゃあ、何でこんな所に居るの?やっぱり、昔ここが病院だったから?」
                            「この地には村があっただけだ、病院じゃない。奴はお前の力を狙っている。蓮閃を、彼の地を揺さぶる力」
                            「れん…せん……」

                            絢香には聞きなれない言葉の筈なのに、酷く『蓮閃』と言う言葉気になった。

                            「和泉、これを」

                            甘城は、懐から赤い和紙で包んだ一つの包みを絢香に渡す。

                            「これは?」

                            包みを開けると、オーロラ色の大きな飴玉が出てきた。
                            優しく甘い香りが漂う。

                            「時間がない、早く食しなさい」

                            急かされるままに、絢香は眼の前の飴玉を口に入れる。
                            すると、飴玉は見た目の大きさに囚われる事なくアイスクリームのように口の中で一瞬にして溶けて無くなった。
                            しかし次の瞬間、眼から火花が散った感覚が襲い、両目に激痛が走る。

                            「痛い!熱い!!」

                            熱さと痛みは一瞬にして消えたが、絢香は両目を押さえて蹲る。
                            少しして痛みが引き、ゆっくりと眼を開いた。

                            「先生…?」

                            絢香の眼が甘城を探すが、そこに居たのは派手な厨子を横に置き、深々と頭を下げた見慣れない服装の男が居た。

                            「校医、甘城 優は仮の姿。我が名は甘寧、貴女を蓮閃へお連れする為に来ました。内親王様」

                            甘寧(かんねい)と名乗った面を上げる。
                            その顔、声と共に甘城 優の面影は見られなかった。

                            「……え?蓮閃へ連れて行く?え?内親王?てか、何がどうなって……」

                            目まぐるしく襲う非現実的な事に、絢香はオロオロするばかり。

                            「話は後だ、奴が戻ってくる」

                            甘寧が錫杖で床を鳴らすと、床に大きな水面が現れる。
                            夜の水面のように藍色暗い水面に、白く輝いた大きな鳥居が池に映る夜月のように揺らめいて映っていた。
                            絢香が、その白い鳥居に見とれていると背後から冷たく物々しい気配を感じ振り返る。
                            そこには、毒々しい色の木の根に巻きつかれたあの看護婦の霊が恨みの眼をして立っていた。

                            「うわっ……」

                            先ほど以上に酷い姿から絢香は眼を逸らす。

                            「有るべき本来の姿が見えたのなら、視覚は戻っているな」
                            「視覚が戻る?私、視力は良い方ですよ?」
                            「それは、ここ人間の世界…我ら妖怪で言う蘭閃で生きる為の視覚。蓮閃では役に立たない、先ほどの眼の痛みは
                              封じられた視覚を無理矢理呼び戻した副作用だ。事態が事態だ、許せ」

                            そう説明しながら、甘寧は絢香をゆっくりと突き飛ばす。

                            「……え?」

                            一瞬何が起こったか解らず、絢香は時が止まって感じられる。
                            しかし、水面に映る白い鳥居に吸い寄せられる感覚に襲われた。

                            「蓮閃へ着いたら都を目指せ」

                            そして、体が光に包まれると甘寧とあの霊が戦う場面と言葉を最後に絢香の意識は途切れた。