水分の巫女
水分(みくまり)の国と、南西に位置する可畏(かい)の国境にある町。
唐物風の建物や、唐風の民族衣装に身を包んだ妖怪達が忙しなく動いていた。
「ここは、今までと少し雰囲気が違うね。あ、でも、迦楼羅と服装が似てるかも」
和風から一変して、中華風に変化した景色を見渡しながら絢香が言う。
「ここは、南に近いからね」
「南に何かあるの?」
迦楼羅の言葉に、絢香がすかさず質問をする。
「海洋を挟んだ南方に、龍術を操る聖龍が住む崑崙という大国が存在する。南側にある国々は、その大国と貿易して財を築いてるのさ」
「へぇー、この世界にも外国があるんだねぇ」
この蓮閃の他に外国があることを知り、絢香はいつか自分も広い世界を見てみたいと思った。
しかし、急に周りが騒がしくなる。
何かから逃れるように、悲鳴を上げた人々が絢香の視界を右から左へ走っていった。
「え?何?何?」
急に騒がしくなった周囲を、絢香はキョロキョロ見渡す。
「我が君、お下がりください。どうやら、暴れ馬のようです」
周囲の声を聞き取った禰禰が、絢香を後ろに下がらした。
「馬!?」
絢香が慌てて地図を開くと、街道を馬の字が疾走している。
「姉様ー!姉様ー!!」
その時、子供の悲鳴が聞こえ、良く見ると暴走する馬の鞍に幼い少女がしがみ付いている。
「瑪瑙ー!!お願いします!どなたか、馬を!!」
絢香と同じ歳ぐらいの女の子が、失踪する馬に離されつつも必死に妹を追っていた。
「馬かぁ、久しぶりだなぁ」
そう絢香は呟くと、疾走する馬に近寄り、鞍に軽々と飛び乗る。
「お、おねぇさん誰なのですか?」
鞍にしがみ付いていた少女が、軽々と飛び乗って来た絢香に驚きの顔を向ける。
「話は後で。今は、この子を大人しくさせるのが先でしょ。この子の名前は?」
絢香は前のめりになり、手綱を手に絡めて短く持つと馬を見やる。
「こ、コクヨウなのです」
「コクヨウね。大丈夫、必ずコクヨウを止めるから貴方は振り落とされないようにしっかり掴まってて」
「はいです」
少女は頷くと、鞍にしっかりと掴まった。
「さて……(スライディングストップは。っと、まずランダウンからか……)」
絢香は、拍車と呼ばれる道具が踵に取り付けられた騎手用の靴を履いていないため、ブーツの踵で馬腹を圧迫する。
パニック状態になっていたコクヨウが、絢香の拍車行動に気付いて速度を緩めた。
「お?よかった、賢い馬で」
絢香はスライディングストップに向け、速い駈歩程度にまで失速したコクヨウの手綱を握り直した。
「行くよ!掴まって!!」
鐙(あぶみ)の上に立ち上がると、絢香は気合を入れて叫ぶ。
そして、全体重をかけて手綱を後方へ引っ張った。
コクヨウは甲高い嘶きを上げ、地面近くまで下半身を下げると後肢は馬体の下に大きく踏み込む。
左右揃えて前方に突き出された後肢は、土煙を上げてスライディングを始めた。
「馬の重心を十分に後ろに下げ、レイン(手綱)を緩めてバランスを取らせる」
絢香は勢いで後ろに倒れないようバランスを取ると、乗馬クラブで習った事を口に出す。
握っていた手綱の力を抜くと、コクヨウの首は左へ傾いた。
すぐに左側の手綱を引くと、空を蹴っていた前肢が絢香のリードに合わせて180度のターンを行う。
そして、絢香が重心を前に持って行きながら鞍に腰をかけると、コクヨウの前肢が地面に着地した。
「よしよし、上手く行った♪」
「おねぇさん、凄いです!すっごいです!!」
「いやいや、たまたまだよ」
興奮して眼を輝かせる少女に、絢香は照れながら答えた。
少女の髪を良く見ると、縞目が紅色と白色に彩られ、紅縞瑪瑙を思い起こさせる。
先ほどまで暴れていたコクヨウを止めた絢香を、街道の端で顛末を見ていた人々が盛大な拍手と歓声で称えた。
「あわわっ、どうもどうも……」
初めて浴びた歓声に戸惑いながら、絢香はコクヨウを少女の安否を心配している姉の許へ歩かせた。
「瑪瑙!!」
先ほど、コクヨウを追いかけていた長い瑠璃色の髪をした女の子が走ってくる。
「…うっ…姉様ぁ〜…うぇーん!姉様ー!姉様ー!!」
姉の姿を見つけた瑪瑙は、大きな声で泣き出した。
「はい、到着」
絢香は泣きじゃくる瑪瑙を抱き上げると、瑠璃色の髪をした女の子に渡す。
「有難う御座います!有難う御座います!!」
妹を抱きしめながら、女の子は何度も頭を下げる。
「いやー、無事でよかったよ」
そう言いながら、絢香は馬から降りる。
「我が君!ご無事ですか!」
「ん。取りあえずは」
駆け寄ってきた禰禰に、絢香は頷いてみせる。
「私の背から急に出ていかれたので、驚きましたぞ」
無傷な絢香を見た禰禰は、口元を扇で隠しながら言った。
「見事な馬術だった、流石だな神子」
「これでも趣味は乗馬だからね」
隣で馬を撫でる要に絢香が答える。
「へぇ、趣味が乗馬だなんて。人は見かけによらないね」
小馬鹿にした声音が聞こえ、絢香が少し視線を上げると鞍に脚を組んで横座りになった迦楼羅が居た。
「ちょっと、どうゆう意味ー?」
「別にー。高尚な趣味だと思っただけだよ」
「あの、先ほどは本当に有難うございました。私、高千穂村で水分の巫女をしています瑠璃と申します」
瑠璃と名乗った瑠璃色の髪の女の子が、再び絢香に頭を下げる。
「私は絢香。コクヨウが賢い馬だったから、何とかなったんだ。多分、何かに驚いたんだと思う」
絢香は、コクヨウを撫でながら答えた。
「高千穂村の巫女は、村から出ないと聞いた。この界隈で何をしている?」
要が瑠璃に問う。
「いえ、これ以上ご迷惑をお掛けするわけには参りません。気になさらないでください」
「霊力が強い人を探してるです!」
「こ、これ、瑪瑙っ!?」
遠慮して首を振った瑠璃の横で、瑪瑙が声を上げる。
慌てて瑠璃が瑪瑙の口を手で塞ぐが、既に後の祭りであった。
「何で、霊力の強い人を探してるの?」
「退治して頂きたい妖怪が居るのです」
もう諦めたのか、瑠璃が溜息をつきつつ絢香の問いに答えた。
「村に悪事を働く妖怪を、退治していただきたいのです。水分の神を名乗るその妖怪が村に来てから、もう1年近くも雨が降らないのです」
「雨乞いはしないのか?水分の巫女なら簡単だろう」
瑠璃の説明に、要が疑問を持つ。
「雨乞いをしても、水分様の声が聞こえないのです。水分様を騙る妖怪からは清浄な気どころか、滞った邪気しか感じられません。この代々水分の巫女に伝えられる、天之水分様と国之水分様の力が封じ込められた水分の霊石にも何の反応が見られませんでした」
瑠璃は、首から下げている青い水晶石を絢香達に見せた。
すると、霊石が青く発光しながら宙に浮くとコンパスの針のように絢香を指す。
「絢香、貴女から強い清浄な力を感じるわ。貴女、一体何者なの?」
「え?いや、普通の人だけど?」
瑠璃からの質問に、絢香は首を傾げた。
「お願い、絢香!村を妖怪の手から救って!村の皆は妖怪に唆されて、私の話を聞いてくれないの。このままでは、村はもう終わりだわ」
「悪いけど、こっちにはこっちの事情がある。他を当ってくれない?」
懇願する瑠璃の言葉を、迦楼羅は冷たく遮る。
「ねぇ、ねぇ。何も、そんな言い方しなくても良いんじゃないの?」
「……何も知らないくせに、口を挟まないで。それとも何?守護者集めを後回しにする気?」
絢香の言葉に、迦楼羅は声音を落とす。
「そこまで言ってないし……」
整った眉が吊り上り、綺麗な翡翠色の瞳から鋭い視線を向けられた絢香は眼を逸らす。
「中納言殿、気持ちは解からなくもないが急いては事を仕損じる。ここは、流れに任せたまえ」
大人の余裕を感じさせる声音で、禰禰が小さく笑う。
「ちっ、まだたったの二人だというのに……」
禰禰の言葉に、迦楼羅は舌打ちして黙った。
「ん?朱璃、大丈夫?何か、少し顔色悪い気がするけど」
禰禰の隣で、少し青白い顔をした朱璃に声をかける。
「大丈夫で、御座います。すぐ治りますので、気になさらないでくださいな」
体調が悪いのか、浅い呼吸を繰り返しながらも朱璃は気丈に微笑んで返した。
「でも、このままでは心配だわ。さっきの話を抜きにしても、私たちの村で休んでいったらどうかしら」
髪と同色の青い瑠璃の眼が、絢香の顔を捉える。
「うーん、そうした方がいいかも」
瑠璃と眼を合わせて頷くも、絢香はすぐ朱璃の方を向き観察し始めた。
高千穂村
巫女装束に着替えた瑠璃の案内で、絢香達は水分神社へと通される。
この神社には、村の女達を纏める‘オババ様’と呼ばれる老巫女が居た。
「ここから先は、男子禁制区になります。殿方はあちらでお待ちください」
絢香達を取り囲むように歩いていた、数人の巫女達の1人が口を開く。
神社に入ってすぐの部屋の扉を、二人の巫女が左右同時に開いた。
「禁制区と聞くと、どうも気になっていけないね。この先にある花園を垣間見たくなるよ」
口元を少し開いた扇で隠した禰禰が、先へと続く廊下を眺めて眼を細める。
「ふん、くだらん」
そんな禰禰の横を、刹羅がすり抜けて部屋へと入った。
「アンタ、内裏の女官達にあれだけ騒がれてるのにまだ足りないわけ?」
今度は迦楼羅が、溜息をつきつつ禰禰を肘で押しのける。
「かく言う君も、数多の姫君達からの手紙が絶えないそうじゃないか」
禰禰は扇を閉じる。
「ピーピー煩いだけのヒヨコに興味はないよ」
そう素っ気無く言うと、迦楼羅は部屋へと消えた。
「では、我が君。貴女と離れるのは心苦しいのですが、お帰りをお待ちしてまするぞ」
少し先で停まっていた絢香にそう言うと、禰禰も部屋へ入る。
「神子、何もないとは思うが用心はしておけ」
しきりに周囲を気にしながら、落ち着き無く要が言った。
要が、自分の喉許にあるオーロラ色の逆鱗に触れる。
「何で?」
「この地の気の滞り方が尋常ではない。何者かが、この地に強力な呪詛を施している可能性がある」
要はそれだけ言うと、さっさと部屋へ入って行った。
静かに左右の扉が閉じる。
「絢香、心配しないで。ここへ連れて来たのは私だもの、私が貴女を守るわ」
「ん、ありがとう」
肩を叩いて先を促す瑠璃に、絢香は頷いた。
「朱璃の様子は?だいぶ落ち着いた?」
廊下を歩きながら、別の部屋で休ませて貰っている朱璃の様子を聞く。
「水を飲ませて寝かせてる、今はだいぶ落ち着いたって話よ」
絢香の問いに瑠璃が頷いて答える。
廊下と部屋とを区切るカーテンが開かれ、絢香は中へと通された。
「オババ様、旅人を連れて参りました」
瑠璃が御簾越しに座っている人物に声をかけた。
「ご苦労様でした、水分の巫女。さあ、長旅てお疲れでしょう。お座りなさい、お嬢さん」
顔は御簾で見えないが、老女の優しそうな声がした。
「失礼します」
見ると、藁で編んだ座布団があり、絢香は一声かけてから座る。
その近くで、瑠璃が木目の床に腰を下ろした。
「話はそこの瑠璃から聞いてます、この姉妹を助けて頂いたそうですね。この村の女衆を束ねる者として、礼を言います。私は岩手、オババと呼ばれております」
同刻、隔離された部屋で静かに立ち上がった要に、禰禰は視線を向ける。
「どうしたのかね、要殿?」
「……少し、出てくる。すぐに戻る」
それだけ言うと、要は部屋を出て行った。
水分神社の境内に出ると、要は空を仰ぎ見る。
カラカラに乾いた空から照りつける太陽に、雨が降る兆しはなかった。
「水分の加護を享けたこの地が、日照り続きになるなど不自然すぎる。近くに雨雲が来ている筈だ」
要は千里眼を使い意識を高千穂村の上空に向け、雨雲を探し始める。
「あった……」
山を1つ越えた所に大きな雨雲を見つけるが、風の流れに逆らって不自然にその場に留まる雲に眉を寄せた。
「雲が留まるなど、ありえない」
何かあるのではと考えた要は、雨雲が留まる方向へと歩き出す。
呪詛の気配を感じ、山へと分け入った。
湧き水を湛える泉を探し、山頂付近を目指す。
すると、開けた場所へと出た。
「こ、これは……」
目の前に広がる荒れた情景に、要は息を呑む。
以前は滝が流れていたのか、今はすっかり枯れ果ててしまった岩場に、泥水すら擁しない枯渇した窪みがあるだけであった。
付近に奉られた小さな社は、何者かの手により破壊されている。
「ん?あれは…鏡か……?」
枯渇したかつての泉の底に、光る物を見つけ、要は手に取る。
「っ!?何者だ!」
割れた鏡の欠片を手に取り、気配に振り向くと、要は背後から何者かに頭を殴られそのまま意識を失った。
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