蘭華



             

                            「……んっ…」

                            絢香がゆっくり眼を開けると、最初に見えたのは青々とした草である。
                            次第に意識もはっきりし始め、周りを見渡すと木々が生い茂る森であると確認した。

                            「あれ?制服は?」

                            肌に着慣れた制服の感じがしない為、自分の服装を良く見てみると薄い珊瑚色の平安時代の白拍子が着る水干に似た衣と
                            袖が眼の端に入る。
                            大きく離れた肩の部分からは、一枚下の袷で着ている薄黄緑色の衣の袖部分が見えた。

                            「私の制服とローファーが……」

                            制服と同様、学校で履いていた茶色のローファーの代わりに細かい装飾が施されたショートブーツを履いていた。

                            『蓮閃へ着いたら都を目指せ』

                            最後に覚えていた甘寧の言葉を思い出し、ここが蓮閃なのだろうと絢香は冷静に考える事ができた。

                            「都に行ってみようかな」

                            体に痛みは無く、記憶もはっきりしているため絢香は前向きに動く事に決めた。

                            「とは、言ったものの…。道がない……」

                            ふと、上を見上げても木々に囲まれた小さな空と下には草が生えた地面だけ。
                            どこにも道と呼べる通路はなかった。

                            「無闇に動いたら遭難する可能性が……かと、言って動かないわけにも行かないよね」

                            どうしたものか、と考えあぐねていると不意に前方の藪がガサガサと音を立てた。

                            「う、ウサギかな…?」

                            少しびっくりした絢香は、腰を引き気味に様子を伺う。

                            「グオォォォォ!!」

                            突然、地を這うような雄叫びと共に、二足歩行した巨大な牛のような黒い動物が飛び出してきた。
                            よく見ると、人間の体に牛の頭角と尻尾が生えている。
                            この半人半牛の男にも、旧校舎で見た毒々しい木の根が巻きついていた。

                            「きゃあ!?」

                            突然のことに驚いた、絢香は悲鳴を上げる。
                            その声に気付いた黒い牛男は、大岩程ある巨体を絢香の方へ向け血のように赤い眼を向けた。
                            先ほどまで死角で見えなかったが、腫瘍のように膨らんだ木の根が大怪我を追っている体の半分に根深く入り込んでいる。

                            「ま、まさか……」

                            嫌な予感がした絢香は、少しずつ後ずさった。
                            牛男が、バイオレット色の血液を流しながら近づく。
                            岩石程ある拳が振り下ろされた。

                            「うそぉ!!?」

                            素っ頓狂な声を上げながら、反射的に硬く眼を閉じ腕で頭部を庇う。
                            しかし、いつまで経っても覚悟していたダメージが来ず、絢香は恐る恐る眼を開けた。

                            「……え?」

                            今の現状に、絢香は眼を丸くする。
                            絢香の周囲には、無数の白い光の糸がドーム状に張り巡らされた籠の目に守られていた。
                            振り下ろされて来た大きな拳は空中で静止している。
                            微かにだが、綺麗な優しい音楽が聞こえた。

                            絢香が瞬きをするのを忘れるほど、この心地よい状態に意識が飲み込まれていた時。
                            目の前を黒い影が横切った。

                            「……!?」

                            その影に我に返ると、白く光る籠の目や音楽が消え、最初に二又に分かれたしなやかな猫の尾が見えた。
                            淡い茶色に色づいた尻尾から、人間の体に沿って視線を上へ持って行くと尻尾と同色の髪とアクセントの様に濃く色づいた
                            茶色い猫の耳が見える。

                            「そこで、待っていろ」

                            不意に、凛とした静かな声が降って来た。
                            見ると、逞しくしなやかな背中越しに振り返っていた猫の男と目が合う。
                            髪や耳とは違う、透き通るような青い瞳が絢香の眼を射抜くように見つめていた。
                            絢香がその力強い瞳に魅せられ何も言えずに居ると、肯定と取ったのかその猫の男は再び前を見据え持っていた
                            二振りの長剣を構える。
                            漆黒のマントが翻った。

                            「グオォォォォ!!」

                            その瞬間、耳を劈くような叫び声が聞こえ近くに斬られた丸太の如く太い牛男の腕が落ちた。
                            その瞬間を待っていたのか、憑いていた毒々しい色の根の触手が切断面に凄い勢いで群がる。

                            「うえぇ……」

                            根の触手が餌を貪り食らうその姿に、絢香は顔を顰めた。

                            「おい」
                            「な、何?」

                            さっき聞いた凛とした声が聞こえ、顔を向けるといつの間にか絢香の隣に猫の男が立っていた。

                            「歌え」
                            「は?」

                            この状況で何を言い出すんだこの男は、と思いながら絢香は眼を見張る。
                            しかし、猫の男は大真面目なのか絢香の返答に細く整った眉を歪ませ舌打ちをした。

                            「聞こえなかったか?魂の系譜を紡げと言っているんだ。ここで死にたくないなら、さっき見せた力で讃歌を歌え」
                            「………」

                            横柄な物言いに絢香は頬を引きつらせる。

                            「それとも、ここで件に食われたいか?」

                            返事をしない絢香にイラつき始めたのか、気が高ぶって瞳孔が細くなっている青い瞳で絢香を射抜く様に見据える。
                            そして、件(くだん)と呼んだ牛男を顎で指した。

                            「そ、それは嫌……」

                            流石に、まだ死にたくない絢香は首を振る。

                            「なら、さっきやっていた様に魂の系譜を紡げ」
                            「系譜って言われても、やり方が……」
                            「………。お前は楽士だ、ちゃんと出来る。お前は、この状況をどうしたいんだ?」

                            ため息を吐きつつ猫の男はそう言うと、再び件に駆け出して行った。
                            再び激しい戦闘が始まり、件の攻撃をしなやかに身をかわしつつ間合いを詰める。
                            件が牛の角を向けて猛突進し、猫の男の二本の剣が残光を残しつつ煌く。
                            その戦う姿は、イタリアの闘牛を見ている感じがした。
                            件の二本の角を猫の男は二本の剣で受け止めると、そのまま鍔競り合う。
                            しかし、件に絡み付いていた根が猫の男の死角を突き襲いかかった。

                            「危ない!!」

                            絢香の悲鳴が上がった瞬間、絡みついていた根と共に件の動きが止まる。
                            絢香の足元からは光が満ちて優しい風が吹き抜け、白く光るあの糸は絢香を守る頑丈な籠の形はしておらず周囲を螺旋を
                            描くようにして空へ昇っていた。
                            聞こえて来る音楽も、先ほどの優しい音楽ではなく踊りだしたくなるようなテンポの良い音楽である。

                            「これが、魂の系譜……」

                            絢香はこの現象がそうであると心から確信する。

                            『お前は、この状況をどうしたいんだ?』

                            あの猫の男がさっき言っていた言葉が頭の中で繰り返された。

                            「件から聞こえる、この胸が締め付けられるような悲しい魂の歌を止めたい!もう、苦しんで欲しくないの!」

                            光の中から、絢香は猫の男に右手を伸ばす。
                            猫の男も左の剣を納め、絢香に左手を伸ばす。
                            指先から少しずつ合わさる。
                            完全に合わさった時、二人は同じ光を共有し始めた。

                            「これがお前の鼓舞の歌か、悪くない」

                            絢香が紡ぐ音楽が聞こえたのか、猫の男は心地よさそうに眼を閉じると二又の尾を揺らして聞き入る。

                            「行ける?」
                            「当然だ」

                            二人の手が離れても、互いの光は衰えない。
                            猫の男は耳を後ろに下げ、尾の毛は逆立てると勢いよく大地を蹴って飛び上がる。
                            上空で左の剣を抜くと、そのまま件を斬り伏せた。
                            件は倒れると、体は根ごと次第に透過していき、最後には何もなかったような青々とした草が残る。
                            この時には、もう二人を包む光も音楽も消えていた。

                            「お前、名は。どこから来た」

                            二振りの長剣を収めつつ、不躾に猫の男が問う。

                            「人の名前を聞く前に、まず自分が名乗るのが礼儀でしょ?」
                            「ほう。助けて貰っておいてそんな態度を取るとは、随分育ちが良いようだな?」

                            猫の男は程よく筋肉がついた腕を組むと、鼻で笑う。

                            「別に、助けてと言った覚えはないし。アンタが勝手に戦ってたんんでしょ?男のくせに猫耳なんか生やしちゃってさ」

                            嫌味を言われ、負けず嫌いの絢香は噛み付く。

                            「気が強い上に噛み付き癖もある、か。今時、化け猫を見たことがないとはな。道理で、世間を知らない顔をしている」
                            「ちょっと!顔は関係ないでしょ!確かに、顔は良いわけでもないし、ここの事あまり知らないけど」
                            「彼岸の森は初めてか?」
                            「初めても何も、私ここの世界の住人じゃないし。そもそも、アンタがさっき言ってた楽士って何?」
                            「蓮閃の者じゃないだと!」

                            驚きの声と共に猫の瞳が細くなる。

                            「だから、ここの事何もわからないの……」

                            絢香は段々心細くなり、先程の強気の声ではなく沈んだ声で喋る。

                            「………刹羅だ」
                            「え?」

                            二度目の溜息後、不意に聞こえた声に絢香は顔を上げる。

                            「俺の名だ、二度は言わん」
                            「あ、絢香!私、和泉絢香って言うの!」
                            「大声を出すな、聞こえている」

                            絢香の声に、化け猫刹羅は眉を寄せた。

                            「私、向こうから…えっと…」

                            絢香は空を指しながら口ごもる。

                            「蘭閃か?」

                            名前が出てこない絢香に、刹羅が答える。

                            「そう、それ。白い鳥居を潜って来たんだと思う」
                            「思う?確信はないのか?」
                            「鳥居に吸い寄せられた所までは覚えているんだけど、潜った後気を失っちゃって」
                            「ハハハハ!これは、何という巡り合わせ!そうか、お前は蘭華だったか!」

                            絢香の話を静かに聴いていた刹羅が急に高らかに笑い出す。

                            「え?何?どうしたの?」
                            「お前が潜った白い鳥居は、ここ蓮閃とお前が居た世界蘭閃とを繋ぐ門だ。関所だと思ってくれて構わん。
                              2千年近く昔は、門の出入りは自由だったが…いつからか、俺達妖怪と人間は相容れない存在になり門は硬く閉ざされ
                              世界を分けた。だが、稀にお前みたく門を通る事が出来る資格を持つ者が蘭閃に現れる。
                              それが、蘭閃に咲いた蓮の華と意味を込めて蘭華と呼ばれる者達だ」
                            「大体は解った。じゃあ、楽士っていうのは?」
                            「楽士は、その対である闘士を歌や舞で鼓舞するサポーターだ。闘士との絆の強さで、互いの力を何倍にも強大にする
                              ことができる。大勢の敵に囲まれても、絆さえ強ければ勝算もある。だが、修行量でどうとでもなる闘士とは違い、
                              楽士の数は非常に少ない。生まれ持った才能の有無やパートナーの良し悪しで生存率が低い」
                            「……ん?総合すると、私は稀に現れる蘭華であり、絶滅危惧種の楽士ってこと?」
                            「情報処理能力はあるようだな、そうだ。お前、俺の楽士になれ。さっきみたいな厄災から護ってやる」
                            「ちょっと待って!勝手に話を進めないで、大体アンタ得体が知れなさ過ぎる。そもそも、アンタ強いの?」
                            「強い男を好むか。良い心掛けだ。俺は件のような穢れを受けた厄災を獲物として狩るバウンティハンターだ」
                            「バ、バウンティハンター…賞金稼ぎしてるの?」

                            日本では許されていない職業に、絢香は好奇心に眼を輝かせる。

                            「その様子だと、最低限の知識はあるようだな」

                            説明する手間が省けて嬉しがりつつ、刹羅は鼻で笑う。

                            「アンタの楽士になってあげる。但し、いくつか条件があるよ」
                            「面白い。言ってみろ」
                            「私がここへ来た理由と、門を通れた資格が何なのか知りたい。アンタはさっき楽士は才能だと言った、
                              私の才能がどこまでなのか知りたい」
                            「下らん、そのつもりだ。嫌がっても、俺がお前の知識・技術・才能全て育ててやる。話は終わりか?」
                            「あと、都に行きたい」
                            「都か。良いだろう、そこなら情報も手に入りやすい」

                            それだけ言うと刹羅は、歩き出す。
                            逸れないように絢香も急いで、刹羅の後を追った。