覇道 畜生道







「あの、貴女は?」

優しそうに眼を細めるこの初老の女性に、絢香は首を傾げる。

「小生、先代の帝にお仕えしてました斎(いつき)と申します。斎君(いつきのきみ)とお呼びくださいまし」

斎君が現れると、迦楼羅と禰禰と高麗の警戒心が強まる。

「私に何か?」

そんな三人の警戒心に煽られ、絢香も無意識のうちに警戒していた。

「そんなに警戒なさらないで下さいまし、小生は貴女をお迎えに上がった次第でしてよ」

斎君は芭蕉扇で口元を隠すと、上品に笑う。

「迎えにって、どこに連れて行くんですか?」
「どこ?これは、奇異な事を。魂癒良(たまゆら)院離宮でしてよ」
「ダメだ!!!」

斎君が行き先を告げると、それまで黙っていた迦楼羅が鋭い声を張り上げた。

「鳳の君、一ノ姫の御前で声を荒げるとは何ごとです」

芭蕉扇から目元だけを覗かせ、斎君は迦楼羅に眉根を吊り上げる。

「今の絢香には六道の守護者が居ない、行っても魂を食われるだけだろ」

迦楼羅は静かに眉を吊り上げた。

「六道の守護者って何?」

絢香は迦楼羅に視線を移す。

「……中将に任せる」

絢香に顔を向けられた迦楼羅は面倒臭そうにそう言うと、禰禰の方に顔を背ける。

「また後ほどにでもしようか」

順番が回って来た禰禰は、笑いながら答えた。

「……どうやら鳳の君の言う通り、今の姫には離宮はまだ早いようですわね、時が満ちるのを待つとしましょう。ごきけんよう、一ノ姫」

そう言うと斎君はあっさりと踵を返した。
斎君がいなくなってから絢香は禰禰を見る。

「六道の守護者って何ですか?」
「六道とは、冥界における地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道とし人間と妖怪が死後行き着く場所とされております。六道の守護者とは、その六道全てを司る六道転輪王の王位継承者である帝を守る守り手を指します」
「私にもその守護者が居るってこと?」

今度は迦楼羅に眼を向ける。
迦楼羅は、絢香の問いに1つ頷いた。
その途端、周囲に強い突風が吹き荒れる。

「お屋形様!!!」

突風が止むと、高麗と同じ服を身に纏った何者かが禰禰の前に片膝をついていた。
しかし、体中に傷を負った所から血が染み出し衣服を紅く染め上げる。
傷だらけの腕に、青い衣を被せた女性を抱えていた。

「柴か、何かあったのだね?」

柴と呼んだ者を見ると、禰禰は瞬時に何かを悟ったのか張り詰めた空気を纏う。

「や、山犬の三壬禰(みつみね)、謀反の疑いあり!お屋形様の留守を狙って、風月(ふうげつ)の館に攻めて来ました!」
「奥方様はご無事か?」

すかさず高麗が歩み寄ると、しゃがんで柴と目線を合わせる。

「三壬禰の呪いで、急速に衰弱しておられます」

柴が抱えていた女性を地面に下ろし、被せていた衣を取った。

「朱璃!」

現れた女性の顔を見るなり、禰禰の顔から血の気が引く。
その女性の周囲には、呪いで黒い霧がかかっていた。

「朱璃!朱璃!!眼を開けなさい!」

禰禰は大股で近寄り手を伸ばそうとするが、高圧の電流が禰禰を襲った。

「……来ないで……」

朱璃と呼ばれた女性が、気配で眼を開ける。
しかし、その眼には殆ど生気が宿ってはいなかった。

「朱璃……すまないね、私は少し館を長く空けすぎていたようだ」

電流に阻まれながらも、禰禰は朱璃に触れようと手を伸ばし続ける。

「……貴方のせいではありません」

朱璃は弱弱しく首を振り、消え入りそうな声で呟いた。

「朱璃、その呪いを私に移しなさい」
「嫌です……」

禰禰の言葉に朱璃は悲しそうに首を振る。

「言うこと聞きなさい、私は狛犬だからその程度の呪いに屈したりはしない」

電磁波の影響で手が麻痺しながらも、懸命に禰禰は手を伸ばし続けた。

「いや…禰禰、もうやめて……」

朱璃の瞳から大粒の涙が零れる。
その時、絢香の手を禰禰の視界が捕らえた。
すると、絢香の手を中心に黒い霧が晴れる。
同時に禰禰を襲う麻痺もなくなり、呪いの穢れが祓われた。

「一ノ宮内親王……」

禰禰の視線が絢香を捕らえる。

「気に入らないよ。か弱い女の子を苦しめるなんて、同じ女として許せない」

冷めた眼をした絢香が朱璃を助け起こすと、朱璃を襲った穢れが祓われ瞳には生気が戻った。

「助けて頂き有難う御座います」

顔色が良くなった朱璃が、絢香に会釈をする。

「いえ、気にしないでください。私が勝手にしたことですから」

他人から感謝され慣れていない絢香は、恥ずかしそうに首を振った。

「一ノ宮内親王の御手を煩わせたこと、大変申し訳なく御座います。が、我が妻をお救い下さり感謝の極みに御座います」
「ちょっ、中将まで!」

禰禰にまで頭を下げられ、恥ずかしさの余り絢香は慌て始める。

「まあ!?帝室のお方とは露知らず、内親王様の前ではしたない姿を…」

禰禰の言葉を聞いた朱璃は慌てて居ずまいを正す。

「…………」

一方的に壁を作る二人に、絢香はとうとう黙り始めた。
そこへ、迦楼羅が絢香に近づく。

「何、遠慮してるのさ?嫌なら嫌って言ったら良い」

突き放すような台詞ではあるが、迦楼羅の声音と表情は優しさが隠れていた。

「うん」

そんな迦楼羅の一押しに、絢香は肩の力を抜く。

「私、この世界に初めて来たからここの事何も知らないし、自分の事も解らないのに内親王とか言われて畏まられても困るし。上手く言葉に出来ないけど、皆とは、友達として付き合いたいの。だから、その、畏まったりしないで欲しいの」
「それは、ご命令かね?」

禰禰の冷めた眼が絢香を見据える。

「え?命令というわけでは……」

禰禰の眼を見た絢香は口篭った。

「それは僥倖な事、我が身は生涯唯一の主人の為にと誓っております。失礼ながら、母君が人間たる一ノ宮に我が主人と成りうる資質があるとは思えませんな。我が館が騒がしいので、これにて失礼するよ」

禰禰はそう言うと踵を返す。
朱璃は絢香に一礼すると、禰禰の後を追った。

「宜しかったのですか、お屋形様」

早足で歩く禰禰に高麗が言う。

「当家の恥を他人にわざわざ曝すことはない。もう忘れたまえ、彼女とは会うことはない。人間の手を借りるぐらいなら、いっそ……」

そう呟くと、禰禰はそれっきり閉口した。

橘侍従殿に戻ると、高麗が禰禰の前に一枚の大きな地図を広げる。

「さて、状況を聞こうか」

禰禰が視線を柴に向けると、柴が頷いた。

「軍旗の印は峰と大山犬、三壬禰の軍と見て間違いはありません。しかし、少数精鋭で組まれた別働隊の黒髪で長銃二丁を持った見慣れぬ男に斑(まだら)筆頭家老率いる一軍が壊滅に……」
「あの斑爺を叩き潰す男がいるとはな、黒髪に二丁の長銃か……。面白い、良いだろう。私が直に相手をしてやる」

不適に笑った禰禰が立ち上がると、高麗と柴も立ち上がった。





「で、これからどうするの?」
「うーん、どうしよう?」

迦楼羅の問いに絢香は顔を見合わせる。

「とりあえず、一度戻ったら?」
「そうね、氷鴈に聞きたいことがあるし。迦楼羅は?」
「帰る」

さも、当然のように一言で即答する迦楼羅に絢香は驚いた。

「あれ、仕事は?」
「今日の務めは終わりだ」
「早っ!?もっと、仕事しなよ!!」
「煩いな、お前には関係ないでしょ」
「それは、そうだけど…」
「もう、ここに用がないなら早く帰りなよ」

そう言うと、迦楼羅は背を向けて歩き出す。

「お待ち下さい!!」

しかし、誰かの声が聞こえて二人が振り返る。
そこには、先程別れた朱璃と名乗っていた女性が息を切らして走り寄って来ていた。

「どうなされた、橘夫人」

切羽詰まった朱璃の顔を見た迦楼羅が声を掛ける。

「お願いします、どうか夫を。橘家をお救い下さい!!」
「落ち着いてください、一体どうしたんですか?」

慌てふためく朱璃を、絢香が宥める。

「昨日、夫の腹違いの弟である山犬の三壬禰が、山犬一族を挙げて当家に攻めて来ました」

少し落ち着いた朱璃が、事の事情を話し始めた。

「失礼ながら、そちらは私怨を募らせていがみ合っていると聞いているが?」

ふと、疑問に思った迦楼羅が口を挟む。

「はい。今までも、何度か衝突を繰り返していましたが、夫が返り討ちにしていましたので大事には至っておりませんでした。しかし今回、夫の留守を狙って見たこともない術を使う強い術師を連れて来たんです」
「見たこともない術?」

迦楼羅が真剣な眼差しで、朱璃に先を促した。

「引き金のない二丁の長銃で、見えない弾丸を撃ち込んでくるんです」
「引き金のない二丁銃!?」

武器の特徴を聞いた絢香が、驚いて声を上げる。

「何、知ってるの?」
「私を襲ってきた人かもしれない」

都に着く前の川原で出会ったヒツキを思い出して、絢香が不安そうな声を出した。

「その方がとても、お強い方なんです。その方1人に、家の者殆どが呪いで倒れました。夫が心配なんです、お願いします助けて下さい」

そう言うと、朱璃が頭を下げた。

「解ったわ、私行くよ」
「ちょっと!自分が何言ってるのか解ってるの?」

即答する絢香に迦楼羅が口を挟む。

「解ってるよ。中将には松原での借りがあるし、それに呪いなら私が行った方が良いでしょ?」

さっきの一件で自信がついた絢香が、迦楼羅に笑って答える。

「はぁ……。で、頭数揃える当てはあるの?」

迦楼羅は1つ溜息をつくと、絢香を見る。

「2人居るよ」
「へぇ、誰?」

きっぱりと答える絢香に、迦楼羅は不適に笑みを浮かべた。

「私の闘士になった人と、あとは貴方」

絢香は迦楼羅の眼を真っ直ぐ見つめた。

「……この、タラシめ」
「良く言われるv」

照れ隠しで眼を逸らした迦楼羅を絢香がクスクス笑う。

「あ、有難う御座います!」
「いえ。気にしないで下さい、私が勝手にすることですから」

勢い良く頭を下げる朱璃に、絢香が逆に恐縮しだす。

「早くしなよ、よろず屋の所に行くんだろ」

いつの間にか、迦楼羅は馬の様に手綱をつけた大きな鳩の背に乗っていた。

「大きい鳩ねー?」
「馬で行くより、こっちの方が早いからね」

絢香と朱璃が乗ったのを確認すると、迦楼羅は鳩を飛び立たせた。





よろず屋に戻った絢香は、勢い良くドアを開け放つ。

「刹羅、帰ってる!?」
「わっ!?びっくりしたー」

急にドアが開け放たれ、氷鴈は手元の雑誌から顔を上げた。

「ねぇ、刹羅は!?」

氷鴈を見つけた絢香が、大股で歩み寄る。

「刹羅サン?あの人なら〜……」
「何だ、騒々しい」

絢香の剣幕に逃げ腰になりながら、氷鴈は後ろにある窓を見やる。
同時に騒ぎを聞きつけた刹羅が、開け放たれた窓の外から逆さまに顔を出した。

「わあ!!?」

刹羅の行動に、今度は絢香が驚いた。
しかし、絢香の驚き声を他所に屋根に居た刹羅は軽々と開けてある窓から室内へ入る。

「で、何だ」
「今から、私と一緒に戦って」
「出かけたかと思えば、随分と急な話になってるな」

絢香の言葉に、刹羅は呆れて溜息をついた。

「理由なら後で話すから、私の闘士として一緒に来て」
「……良いだろう」

刹羅が少し間を空けてから頷く。

「それにしても、お嬢さん珍しいメンバー連れているじゃないか。他人の下には就かない鳳の若君に、滅多に外へ出ない橘中将の御内儀。これは面白そうだ」

そういうと氷鴈は笑った。

「よし、これでパーティーは揃ったね。これから、どこに行けば良いですか?」

絢香の視線を受け、朱璃が1つ頷く。

「はい、ここから北西に位置する解治(かいち)の国です。そこの風月の館が当家となります」
「氷鴈、その国の地図とかってある?」
「心配ご無用♪今朝渡した地図が、現地に着いたら勝手に解治の地図になってくれるから」
「それじゃあ、さっそく解治の国へ行きましょうか」

絢香の号令で、絢香達は解治の国へと向かった。






解治の国

一足早く自国に到着していた禰禰は、風月の館が一望できる切り立った崖の上に居た。
半壊して、所々から煙が立ち上る館を眺めている。

「高麗、柴。遠吠えだ、私が帰ってきた事を教えてやりなさい」

禰禰は視線を移さずに二人に命じる。
高麗と柴は断崖絶壁に立つと、遠吠えを始めた。
劣勢に立たされていた館の方からも、その遠吠えに答えるように方々から遠吠えが上がり始める。
初めはバラバラになっていた遠吠えも、次第に合わさり大きな和音を奏でうねりとなってお互いを奮い立たせた。

「まだ、終わりはしない。さあ、行こうか円月輪」

禰禰の言葉に反応して、両手首につけた腕輪が輝き出した。
そして、腕輪が大きな円形の刀に変わる。
直径5m大の円月輪を持ち、禰禰は軽やかに崖を駆け下り戦いに身を投じて行った。
禰禰は館に侵入していた三壬禰の兵達を、体操競技を感じさせる程の華麗な技で斬り捨てて行く。

「斑!斑はどこだ!!」

禰禰は戦いながら、幼い頃からのお目付け役でもある筆頭家老の斑を探して館の奥へと入っていく。
部屋と部屋の間を隔てる襖を勢い良く開け放つと、何者かの後姿が眼に入った。

「君は……」

黒い軍服に黒い長髪、両手に長銃二丁を持ったその相手を取り囲むように部下達の死体が折り重なっている。
禰禰の気配に気付いたのか、黒髪の男がゆっくりと振り返った。

「……解治の長、狛犬の禰禰」

低い静かな声が、相手を確かめるように呟く。

「まだ、幼いな。君ほどの若い青年が禁忌の術に手を染めた経緯は知らないが、私の部下達が大変世話になったようだね」

家族とも言える部下達の死体の中に立つ青年を見つめ、禰禰は武器の円月輪をくるくる廻し始める。

「無駄だ、お前からは吾妹の加護が感じられない。吾妹が近くに居ない守護者は、取るに足らない……」
「随分と見くびられたものだね、これでも私は内裏の右橘を賜る武官。中将として、賊に負けたりなど出来ないのだよ」

静かに闘志を燃やす禰禰が円月輪を投げると、意思を持っているかの如く回転速度を上げて青年に襲い掛かる。
青年は軽やかに後ろへ飛び退き禰禰の円月輪をかわすと、銃を発砲した。

「当たると思うのかね?」
禰禰は素早く避けると間合いを詰め、円月輪を手に掴むと青年に振り下ろす。
青年も銃で受け止め、二人は力で競り合った。

「……時間切れだ」

青年はそう言うと額に霊力を集中させ、額に集中させた霊力を一気に放出して禰禰を吹き飛ばした。

「くっ、何て乱暴な力。一体どこにそんな力が」
「中将!!!」
禰禰が吹き飛ばされたのと同時に、数人の人物が部屋の中へ飛び込んできた。

「一ノ宮内親王が、なぜここへ?」

禰禰の視線の先には、地図を片手に持った絢香が居た。

「松原での借りを、返しに来ただけですから。やっぱり、ヒツキだったんだね」

絢香は静かにそういうと、恐怖を押し殺して青年の方へ視線を変えた。

「吾妹、大丈夫。怖がらないで……」
「……え?」

初対面の時と違い、優しく微笑むヒツキに絢香は驚いた。

「思い出した……八幡(やわた)が僕の記憶を引き出してくれた。吾妹、僕と一緒に蘭(あららぎ)城へ行こう……」
「くどいぞ、こいつは幕府になんぞ渡さん」

ヒツキが絢香に手を差し伸べたが、刹羅が間に割って入る。

「邪魔をするな、吾妹は城に居なければならない人だ……」

ヒツキが刹羅を静かに睨む。

「アンタ、ちょっとカッコ悪いよ。大老の八幡に何を吹き込まれたか知らないけれど、この子は朝廷の者だよ」

絢香を護るように立った迦楼羅が弓を構えた。
しかし、突然大きな地震が建物を揺らす。

「きゃあ!?何!何!?」
「落ち着いて!大丈夫だから!!」

突然の地震で床に倒れた絢香を、近くにいた迦楼羅が庇う様にして抱かかえる。

「家老が呪いに屈した…吾妹、次に会う時まで死なないで……」

地震の影響を全く受けていないのか、涼しい顔して立っていたヒツキは言葉を残して静かに消えた。

「諸君!私の後について来たまえ!!」

禰禰の先導で全員は建物から逃れ、広い庭へ出る。
すると、それを待っていたかのように地震は嘘の様にピタリと止んだ。
そして、館の屋根を軽々と越える程の大きな影が空を隠す。

「何?」

嫌な感じがした絢香は、太陽に雲がかかっただけだと思いながらも上を見上げた。

「……なんと言うことだ」

上を見上げた禰禰が影の正体を見た途端、絶望で声を沈ませる。

「お屋形様!ご無事で!!」
「我らにどうか御下知を!!」

影を追ってきたのか、傷だらけになりながらもまだ動ける部下達が禰禰の周囲に集まってきた。

「動ける者は速やかに包囲網を敷きなさい!負傷した者は下がれ!アレは、私がやる……」

禰禰の指示を仰いだ部下達は、速やかに散らばっていく。

『……若……』

空を覆う程の巨大なダルメシアンが、苦しそうな呻き声と共に言葉を発した。

「屈したか、爺……」

幼い頃から行動を共にしてきた目付け役の変わり果てた姿に、禰禰は断腸の思いで声を絞り出す。
斑と呼ばれた巨大なダルメシアンは、何も声を発することなく大きな爪を禰禰に振り下ろした。
禰禰は簡単に爪をかわすと、屋根の上に移動する。
黒く濁って何も見えなくなった大きな眼が、虚しく禰禰の姿を鏡のように映した。

『……若……若……』

まだどこかに理性があるのか、斑の眼から大粒の血の涙が滴り落ちる。

「もう少しの辛抱だ、お前は私の手で楽にしてやる」

禰禰は円月輪を握り直すと構えた。

「殺すなんてダメ!家族なんでしょ!?」

絢香の鋭い声が禰禰の耳に届く。

「重々承知している、だが家族だからこそと言う事もあるのだよ」

理解していてもどうしようも出来ない理不尽さに苛立ち、禰禰の言葉は棘を含む。

「家族の手を離してはダメ!……残される者の痛みを味わってからでは遅いんだから」

感情が高ぶった絢香の瞳から涙が零れた。
すると、絢香の体が突然光を発し、段々と強まった光に包まれる。

「絢香、君は一体何を出そうとしているんだ……」
「くっ、眩しい……」

迦楼羅と刹羅が眩しい光に腕で眼を庇うと、少しだけ後ずさった。

「これが、皇太子になるべき者の秘めた力……」

巨大な力を目の当たりにした禰禰が無意識に体を後退させる。

「っ!?バカな、この私が臆したと言うのか……世界を統べる大神帝の力に、本能が服従しようとしている」

我に返った禰禰は、心を強く持とうと頭を一振りして刺すような視線で絢香を見つめた。
光が徐々に消えていくと、絢香は淡い光に包まれてフワフワと宙に浮いている。
気を失っている絢香の眼は硬く閉じられていたが、額には光り輝く金文体で畜生道と刻まれていた。
その無防備な絢香を護るように、斑と同じ大きさの巨大な二尾の狼が絢香の後ろで腰を落としている。
対峙していた斑が警戒する唸り声を上げ、顔に文様の化粧が施された二尾の狼に襲い掛かった。
二尾の狼も姿勢を落とし襲い掛かる体制に入ったが、何かに反応して静かに眼を閉じている絢香を見る。
そして、再び静かに絢香の後ろに腰を下ろすと口を大きく開けた。
すると、斑にかかった呪いが口の中へと吸い込まれていく。
少しずつ呪いが抜け始めた斑は、風船の空気が抜けるように段々と体の大きさは小さくなっていき人型のお爺さんに変わった。

「呪いを食しているのか……」

眼前の現状に驚きを隠せない禰禰が、呪いを食べる二尾の狼を見つめた。
呪いが完全に抜け切る頃には、ダルメシアンの耳と尻尾が生えた老兵へと変わる。
老兵は気を失ってその場に倒れた。

「斑!」

倒れた斑を禰禰が抱き起こした。

「……わ、か……」
「死に損なったな、爺……」

疲労困憊してるものの、元気そうな斑に禰禰は安堵の表情を向ける。
そして二尾の狼に視線を変え、黒と白の大きなオッドアイに見つめられた禰禰は無意識に体を強張らせた。
そんな禰禰を知ってか知らずか、二尾の狼はゆっくり体を持ち上げると絢香の額に輝く金文体で書かれた畜生道の字に口元を近づける。
すると、その大きな体は絢香の額の字に吸い込まれて消えた。

「…………」

今まで閉じられていた絢香の瞳が開かれたが、その瞳に覇気はなく表情はどことなくぼんやりとしている。
絢香を包む淡い光や、額の文字も消えていなかった。

「我が運命、定まりにけり……」

禰禰は嬉しそうに尻尾の毛先を震わすと、絢香の瞳を見つめながらゆっくりと近づく。
その様子を見ていた斑は、怪我などで痛む体をゆっくりと起こすと正座をして倒伏礼を始めた。
周囲に居た部下達もその場で倒伏礼を始め、その中には高麗や柴も含まれている。
禰禰は絢香の前で両膝を着くと、両袖を合わせて顔を伏せた。

「かけまくも畏(おそ)れ多き、小転輪王に請願す」
「……許す」

禰禰の言葉に、ぼんやりとした表情の絢香がゆっくりと口を開く。

「蓮閃の橘の豊原に、みそぎ祓えたまえし時。在り座す王の覇道の諸々の禍事・罪・穢あらゆる厄災を祓いたまえ清めたまえ。ただ願わくば玉璽(ぎょくじ)の印を賜ることを聞こしめせと、かしこみかしこみとを申す」
「……畜生道の寿詞(よごと)、しかと聞き届けた。北西の守護、風天においてその名を縛る、橘 北西風天 臣 禰禰」

絢香の口から禰禰の諱(いみな)が紡がれると、禰禰の額にも絢香と同じ畜生道の字が浮かび上がる。

「御前を離れず、いついかなる時も玉璽の導きに従い仕えたることを誓約す。我が忠誠は、ただ1人の主のもの」

禰禰は静かに両手を地面につけ、深々と頭を下ろした。

「いかなる時も、この身に……逆らうこと……なか……れ……」

絢香は言葉を途切らせながら呟くと、淡い光も消え去ってそのまま重力で崩れ落ちる。
絢香の体を禰禰が抱きとめた。

「私の主人が見つかったこの記念すべき日、私は一生忘れないよ。ありがとう、この世界に帰って来てくれて」

静かに寝息を立てる絢香の顔を見つめながら、禰禰は柔らかく微笑んだ。