旅の始まり







「……んっ……」

爽やかな檜の香りと、瞼の裏の明るさに絢香がゆっくりと眼を開ける。
明るい朝日が瞳の中に飛び込み、かけ布団になっている着物に染み込ませたお香の香りと畳の匂いが鼻腔を抜けた。

「……ここは」

ゆっくりと重い頭を起こし、周囲を見渡すと広い部屋の一段高い上座に寝かされていたことが解かった。

「あぁ…そうか……」

解治の国での出来事を思い出し、絢香は溜息を一つ零す。

「本当に、もう後戻りは出来ないんだなぁ……」

自分に跪いて服従の姿勢を取った禰禰を思い出し、今まで感じたこともない大きなプレッシャーに頭を抱えた。

「失礼いたします。お目覚めでございましょうか?」

不意に襖の向こうから、大人の女性の声がした。

「あ、はいはい。どなたですか?」
「本日、一宮内親王様の更衣の栄誉を賜りました橘家侍女長、愛簾(あいす)と申します」
「ど、どうぞっ!」

緊張からか、絢香は声を上ずらせて答えた。

「ご拝謁、恐悦至極に存知奉ります」

愛簾の返事が終わると静かに襖が開かれ、ラブラドール・レトリバーを思わせる薄いイエロー色の艶やかな髪をした女性が頭を伏せたままそこに居た。
愛簾の後ろには、黒漆に玉虫色の装飾が施された鏡台や葛篭(つづら)がうず高く積まれている。

「(うわっ……)」

余りの豪華さに圧倒され、絢香は口を開けたまま固まった。

「これより、お召し変えをさせて頂きます」

顔を上げた愛簾は、キャリアを積んだ女性社会人の如くキリッとした眼で絢香を見た。
そして、絢香が着ていた白い休息用の着物から、この世界で着ている薄紅色の水干へ手際よく仕度を整え始める。
素早く着付けられ、服ぐらい自分で着ようと思っていた絢香はさっさと鏡台へ座らされてしまった。

「か、髪は良いです!自分でしますから!!」

肩が隠れるぐらいのセミロングの髪に朱漆の櫛を通されかけた時、面倒臭がって普段から髪にそれ程気を使っていない絢香は恥ずかしさの余り愛簾を静止した。

「ご遠慮なさらず、この櫛は香木で作られた特製品。きっと、内親王様の御髪も喜ばれましょう」

言うのが早いか、愛簾は改めて絢香の髪に櫛を通した。

「(ひぃ〜。絶対、髪傷んでる〜。毛先、傷んでるよコレ。こんなことになるなら、ドライヤーぐらいしておくんだった……)」

艶がなくなっている自分の髪を見ながら、絢香は早く終わらないかと切に願っていた。



同刻、橘邸の中央にある対面所(主従関係にある者との対面儀礼の際に用いられる部屋)では禰禰を初め様々な犬種の部下達が集められていた。

「お屋形様、国外に出ていた者達も全て戻りましてございます」

上座と対面する用に下座に座っている禰禰に高麗が報告をした。

「あぁ、高麗、ご苦労だった。すまないね、急な召集をかけさせてしまって」
「何を仰いますか。家臣一同、お屋形様に主が出来申したと皆喜んでおりまする。我らの悲願が叶ったこの晴れやかな日に、誰が馳せ参じぬ事が出来ましょうや」
「ありがとう。今日が我が君の初のお目見え、盛大にお迎えしないといけないからね」
「はい!!」
「流石だね、中将。一通り屋敷内を見させて貰ったけど、一夜にして修繕を終えてしまうなんて」

禰禰の所に迦楼羅が現れ、代わりに高麗は一礼すると下がって行った。

「ははっ。本当に、部下在ってこその私だよ」
「で。あの子は?」
「今、我が家の侍女長にお召し変えをさせている所だ」
「そうか、目が覚めたのか」

絢香の意識が戻ったのを知り、迦楼羅は安堵の色を浮かべた。

「お屋形様、内親王様のお仕度整いましてございます」

静かに入って来た愛簾が、禰禰に報告する。

「ご苦労だったね、愛簾。では、速やかに我が君をお連れしてくれるね?」
「御意にございます。今一度、御前を失礼つかまつります」

愛簾は一礼すると、再び絢香の居る部屋へと向かった。




「内親王様、対面所の準備が整いました故に恐れながらお越し願えませんでしょうか?」

再び戻ってきた愛簾が顔を伏せたまま、絢香に告げる。

「あ。はい、解りました」

緊張で顔を強張らせたまま、絢香はゆっくりと立ち上がった。
愛簾の後について対面所へと長い廊下を渡り、辿り着いた部屋の襖が静かに開かれた。

「!!?」

部屋の中には下座に座り倒伏礼をしている禰禰を先頭に、畳一枚挟んだ後ろには部屋を埋め尽くさんばかりの多種多様な犬種の犬神達が深々と顔を伏していた。
絢香が戸惑っていると、上座のすぐ近くに座っていた迦楼羅と眼が合う。
早く座れと言うように、上座にある座布団に視線を向けた。

「(どうしよう、座布団にもマナーがあるって聞いたんだけど全然解らない……。でも、これで下座に座ったら確実にKYだしなぁ……)」

仕方ないと自分に言い聞かせて、恐々と逃げ腰になりながら藍染の座布団に座る。
絢香が座ると、揃った動作で一斉に伏されていた頭が上がった。

「えっと…、おはよう?」
「ふふっ、おはよう御座います。ご気分は如何ですか?」

正装をした禰禰が微笑む。

「ま、まぁまぁかな。それより、斑の具合はどう?」
「我が君のお陰で大事には至っておりません。此度のご恩、恐悦至極に存知奉ります」
「気にしないで、大して役に立ってないし……あと5人も守護者を見つけるのかぁ〜……」

絢香は溜息をつきつつ、開け放たれた襖から青空を眺めた。

「守護者は、四方と北東・南東・南西・北西の六方角に縁ある者が一人ずつ選ばれます。我が君こそが帝となるべきお方、必ずや全員見つけ出すことが出来ましょう」
「帝になるかなんて興味はないけど、まぁ今を楽しむよ。向こうでは、こんな楽しいこと滅多にないからね」
「……我が君がそう仰るなら、この件は未だ私の胸の内にのみ留めておきましょう」

禰禰は少し残念そうに眼を伏せる。

「いつ出発する?」
「我が君の御心のままに」
「じゃあ、あまり時間はかけられないからすぐ出発しよう。私、学校もあるから早く向こうに帰らないといけないし」
「旅支度が整い次第そのように致しましょう」
「迦楼羅はどうする?」

今まで黙っていた迦楼羅に眼を向ける。

「良いよ、君だけじゃ心配だから付いていってあげる」
「何だ、それ……。所で刹羅は?また、あの人出かけたの?」
「今、戻った」

刹羅の声と共に人影が屋根から室内へと入る。

「わぁっ!?もお〜、この人神出鬼没過ぎる……」
「気配も感じ取れんのか?」
「無茶言うなよ、この猫ニャンめ。守護者探しの旅に出るから、ヨロシク」

刹羅の返事も聞かずに、絢香は地図を取り出した。

「えーと、今は解治の国に居るんだよね?」

絢香の意思に沿うように、地図は八角形のような形の本土を映し出す。
都を中心に、解治と書かれた北西地方の国に眼を向けた。

「恐れながら、我が君。東側には向かってはなりません」

禰禰の静かな声に、絢香は地図から眼を離す。
そして何かに気が付いたのか、再び地図に眼を落とすと東にある大国を見た。

「あ、アララギ城……」

東の大国、新蘭(アララギ)の中心にある蘭城の文字に息を呑む。

「腐敗した蘭幕府の支配地、我が君の御身をお守りするため北東・南東・東の地へお連れする事は控えさせて頂きたいと存じます」
「選べるのは、北と南を含めた西側ね。どこにしようかな?」
「決められないなら西にすれば?」

迦楼羅が西地方を指差した。

「どうして?」
「良く考えなよ、西に行けば南西と南で少なくとも3人は見つかる。南の地の鳥居には、北へ行く直通の鳥居と回廊があるから北にも楽に行ける」

迦楼羅は面倒くさがりながらも、絢香にゆっくりと解り易く教える。

「ここには、確か龍神の末裔が居たな」

刹羅がある一つの村を指差す。

「竜ノ死村……?何か、意味深な名前ね」
「その村の権力者である伊勢崎氏は、代々龍神の血を受け継ぎ、強力な神力を持っていると言われております」
「じゃあ、その人に会いに行ってみよう。何か守護者について解るかもしれないしね」
「御意。道中、我が君の侍女に我が妻朱璃をお使いください。必ずや、我が君のお役に立ちましょう」
「え。いや、悪いよ。彼女、病み上がりでしょ?」

絢香は迷惑かけられないと、手を振って断った。

「恐れながら、私は半人前と言えど獅子の端くれ。もう十二分と回復しております」

禰禰の少し後ろで控えていた朱璃が、一歩前に近寄ると意思の強い眼差しを絢香に向ける。

「う〜ん…じゃあ、頼もうかな…。この世界の作法とか、全然解らないし…あははっ……」

座布団に座る前を思い出し、絢香は恥ずかしそうに苦笑いをした。

「はい!お任せください!」
「よーし!準備が出来次第しゅっぱーつ!!」

ハキハキとした朱璃の明るい笑顔に、ハイテンションになった絢香は元気良く号令をかけた。


その日の午前中に橘邸を出発し、山道の街道を歩き続ける。
途中休憩を挟みながらも、二時間も山道を歩き通していた。

「…………」

さっきの元気はどこへやら、山道を歩きなれていない現代人の絢香には辛過ぎて口数もなくなっていた。

「バテてる?」

貴族のくせに涼しい顔して少し先を歩いてた迦楼羅が、ペースを落として絢香に歩調を合わせる。

「バ、バテてないし!!」

同じ女性の朱璃も平気で歩いてるのを見て、絢香は剥きになって答えた。

「禰禰……」

絢香の様子を見ていた朱璃が、禰禰に何事か耳打ちをする。

「我が君、もう少しで麓の温泉街に到着いたします。暫し、ご無礼の程ご容赦を」

そう言うが早いか、禰禰は素早く絢香を横に抱きかかえた。

「ええぇえ!?」

急にお姫様抱っこの状態になった絢香はびっくりして悲鳴を上げる。

「私も我が君と歩みを共にしたかったのですが、惜しくも日が傾き始めています。夜道の街道は危険ですので、急がせて頂きます。朱璃も乗りなさい」
「うん!」

朱璃が背中に飛び乗ったのを確認すると、軽々と樹に飛び乗る。

「すまないが、同性には優しくないものでね。君達なら自力で付いて来れるだろう?」
「ちっ、猫又を舐めるな」
「ちょっと、中将。アンタ、喧嘩売ってるの?」

ドスの効いた声で刹羅が凄むと、猫特有のしなやかさで樹に飛び乗る。
迦楼羅は背中の翼を広げると、空へと飛んだ。
日が落ちる前に麓に着き、今夜の宿を探し始める。
街中、客寄せの声で活気が溢れていた。

「わぁ…、凄い……」

温泉宿の他に色々な品物を扱った商店が立ち並んでいて、絢香は方々に眼を輝かせた。

「ちょっと、面倒だからちゃんと付いてきてよ」

呆れ声の迦楼羅が、絢香の腕をつかむと一軒の宿屋に入る。
大勢の客の雑踏の中、入口を入った辺りで禰禰と朱璃が待っていた。

「我が君のお部屋はお二階になります。朱璃、しっかりと我が君にお仕えするように」
「はい!絢香様、こちらになります」
「あ、はい……(様だって、何かこそばゆいなぁ……)」

朱璃の後について絢香も二階へ上がる。

「うわっ……おいおい、露天風呂付きかよ……」

朱璃が襖を開け、中を覗くとテラスにプライベート用の露天風呂が付いた豪華な部屋であった。
日本では一般人の絢香は、生まれて初めて豪華さに眩暈を覚える。
温泉大国日本の国民である絢香にとっては嬉しい部屋だが、禰禰に悪い気がして素直に喜べなかった。

「絢香様、お風呂の前にまずこちらにお着替えください」

朱璃は、上下離れた薄生地の白い着物を差し出す。

「これは?」
「湯着(ゆぎ)と言う物です。これを着てお入りください」
「あ、水着みたいなものね。解った、オッケー」
「あそこの一角が脱衣所になりますので、ごゆっくりどうぞ」
「朱璃ちゃんは?入らないの?」
「い、いえ、私は絢香様の後に頂きます」
「ねぇねぇ、その様って言うのやめようよ?」
「いえ、そんな。絢香様は夫の主人ですから」

絢香の我侭に困惑した朱璃は顔を伏せ、眼を逸らす。

「……今は違うよ」
「え?」

急に真面目になった絢香の声に朱璃が顔を上げる。

「今は貴女の他には誰も居ない、身分もこの世界の作法も何も解らない子供が居るだけ。私、向こうでも引っ越してきたばかりで友達一人も居なくて……ここも、来たばかりで知り合いなんてそんなに居なくて。こんなに長く話したの貴女が初めてだから、その…良かったら、友達になって貰えたらって……ははっ、ダメだよね、何かここ身分を重視するみたいだし。ごめん、忘れて」

絢香はすくっと立ち上がると、寂しさを押し殺すように早足で脱衣所に向かう。

「……獅子は神の使いでもあり、友人でもあると父が教えてくれました」

黄昏時も過ぎ去り、月明かりと星が照らす静かな部屋に朱璃の声が響く。
朱璃の声に、絢香は振り向かず歩みだけを止めた。

「絢香様が望むなら、私は貴女の友人となりましょう」

朱璃の言葉に絢香はゆっくりと振り返る。

「……ありがとう」

絢香の頬に流れた涙が月明かりに光っていた。