廻る運命







「……う〜ん……」

竜ノ死村へ向かう道中、絢香はしきりに青空を眺めては頭を捻る。

「ちょっと、さっきから煩いよ。朝っぱらから何んなの?」

気に障った迦楼羅が、絢香の肩を叩いて思考を中断させる。

「え……。何か、忘れ物をしてる気がして……。宿を出る時、忘れ物なんて無かったよね?」

絢香は自分の部屋から襖を挟んで隣に居た朱璃を見る。

「はい、出発前に何度か確認しましたがありませんでした」

絢香の問いに朱璃は頷いた。

「だよねぇ〜、ざっと近辺だけ自分でも見たけど忘れ物なんて無かったなぁ……(何だろう、何か大切なことを忘れてる気がする……)」
「頼むから、戻るとか言い出さないでよ」

来た道を引き返すなんてごめんだ、と言いたそうな顔で迦楼羅が釘を刺す。

「言わないよ、そこまですることでもないと思うし。まぁいいや、このまま進もう」

そう言うと絢香は元気良く進行方向を指差した。
少し歩くと少しずつ霧が立ち込め、霧に混ざって微かに甘い香りが周囲に漂い始める。

「村の周囲は霧に囲まれていると聞く、村が近いな」

周囲に気配を配りながら刹羅が言った。

「わっ、もう先が見えない。逸れないように気をつけないと、朱璃も気をつけてね……って、あれ?」

絢香が振り向くと、さっきまですぐ後ろを歩いていた朱璃の姿が見えない。
周囲を見渡しても、朱璃の他に禰禰・刹羅・迦楼羅の三人も霧の中に消えていた。

「やばっ!!言ったそばから、私が迷子!?ちょっ、禰禰ー!朱璃ー!刹羅ー!迦楼羅ー!」

皆の名前を叫んでも、霧の中に吸い込まれていくだけで返事はなかった。

「うそ〜…、どうしよう……あら、今度は柑橘系の匂いがする……」

肩を落としている絢香の鼻腔を、先ほどの甘い香りを打ち消すように柑橘系の香りが通る。
すると、先ほどまで霧で邪魔をされていた視界が一気に開けた。
ふと、視線を感じ右側に壁のようにある小高い崖の上に眼を向ける。

「っ!!?」

立っていた人物の格好に驚き、絢香は一歩後ろへ下がる。
その人物は行書体で「龍」と書かれた布で顔が隠れているため顔は見えないが、神社によく居る宮司の格好をしていた。
袖に隠れてた両手に一つの香炉が乗っており、そこから柑橘系の爽やかな香りを漂わせている。

「……これもダメだ……」
「え?」

不意に布越しの篭った声で呟くと、その人物は踵を返して去っていく。
その去っていく姿が、絢香には酷く寂しそうに映った。



その後、視界が晴れたお陰で迷うことなく絢香は竜ノ死村へと辿り着いた。
村では村人達が世話しなく何かの準備をしている。
所々に向こうでも馴染み深い祭りの出店が見えたため、絢香は近くの村人に話を聞くことにした。

「こんにちは、これから何かあるんですか?」
「はい、こんにちは。村じゃ見かけない子だね?どこの子だい?」

近くに居た温厚な中年女性が絢香に笑いかける。

「旅人です、都のほうから来ました」
「また随分と遠い所から来たねぇ、一人で来たのかい?」
「いえ、連れが居るんですが途中の霧で逸れてしまって。この村に行く予定だったので、暫くこの村で捜してもいいですか?」
「別に構わないよ、今日から2日間龍神祭があるから祭りも楽しんでいきな」
「はい♪」

お祭り好きの絢香は嬉しそうに頷いた。

「神子」
「わっ!?」

急に何者かが絢香の肩を掴み、無理やり後ろを振り向かす。
振り向いた先には、学ランを着た高校3年生ぐらいの男が立っていた。

「要様、今日はもう学校は終わりですか?」

今まで絢香と話していた女性は、大げさに目じりを下げて学ランの彼を要と呼ぶ。

「あぁ。来い、神子」

要と呼ばれた彼は短く答えると、有無を言わさず絢香の腕を引っ張って歩き出す。

「ちょっと、いきなり何!?それに、貴方誰よ!」
「神子は私の名を知りたいのか?ならば答えよう、私の名は伊勢崎 要」
「(回りくどい言い方をするなぁ、この人)……その、神子って何?」
「先代の帝が定めた運命を唯一変えられる存在、和泉絢香お前の事だ」
「何で、私の名前を知ってるの?」
「……今に解る。神子、何者かが神子の命を狙っている。ここに居る間は、伊勢崎神社に居ると良い」

そう言うと要は大きな神社を指差す。
そこには大きくて立派な神社が建っていた。

「中を案内する、付いて来い」

そういうと要は歩き出す。

「っ!?」

急に刺すような鋭い視線を感じた絢香は、反射的に振り返った。

「神子?」
「……な、何でもない」

辺りには何も居ない事を確認した絢香は、要の後について神社内へ入る。
その様子を、少し離れた森の中から要と同じ学ランを着た男が伺っていた。
その人物は森の中へと走り去る。
村の全体が見下ろせる崖まで走ると、眼前にスーツ姿の男が居た。

「せ、精霊様!あいつが!また、あの女がこの村に!!」
「落ち着け、茉莉。激情に任せて、軽率な行動は取っていないだろうな?」
「は、はい……」

茉莉(まつり)と呼ばれた学生は、緑色の瞳を泳がした。
崖先の男がゆっくりと振り返る。
男は手に、甘い香りを漂わせている香炉を乗せていた。

「和泉絢香は一人で来たか?」

女性と見間違えそうな顔立ちの男が静かに問う。

「はい、また一人です」
「そうか。まだ、記憶の回廊から抜け出せないようだな」

男の視線が茉莉から香炉に移る。

「このままでは、また伊勢崎君が。僕にはもう耐えられない!早く、あの女を始末しないと!!」
「お前の気持ちは解らなくはないが、もう少し機会を待て。伊勢崎要も覚悟の上だ」
「けど……」
「この運命は定まった、もう誰にも変えられない」
「……はい」

納得がいかない顔をしながら茉莉は頷くと、その場を去った。



同刻、暇を持て余していた絢香は村人達に混ざって祭り準備の手伝いをしていた。

「ねぇ、和泉さん。茉莉って人にはもう遭っちゃった?」
「え?いや、会ってないけど?」

手伝いをしていた過程で、仲良くなった同年代の少女が問いかける。
神社の舞殿を雑巾がけをしていた手を止め、絢香が少女の方に顔を向けた。

「良かった、もし遭っても絶対に近づいちゃダメだよ?呪われた鬼の一族だから」
「呪われた鬼の一族?」
「この村に伝わる昔話でね、この村は龍神様に護られた楽園のような村だったの。しかし、龍神様は年に一度のこの日に開かれる龍達の会合に出席するためにこの地を離れたの」
「へぇ〜、それからどうなったの?」
「それでね、疫病と厄災をもたらす鬼が龍神様の留守を良い事にこの地で好き放題始めたの。田畑は荒れ、水も腐り、人々が苦しんでいた時に龍神様が戻ってきてその鬼と2日間戦い森の奥にある鬼首塚と呼ばれる洞窟に封印したの」
「鬼の一族ってことは、その茉莉って人は」
「そうよ、その鬼の末裔。龍神様の末裔の要様にしつこく付きまとってるのよ」
「(じゃあ、さっき伊勢崎君が言ってた私の命を狙っている人って……)」

神社で要に言われたことを思い出し、絢香は身を強張らせた。

「まったく、要様も要様よ。村から追い出されて当然なのに、庇ったりするから変に懐かれちゃってさ」

そう言いながら村の少女は、違う場所を掃除しに舞殿を後にする。

「神子、話がある。付いて来い」

少しして、学ランから和服装束に衣服が替わった要が舞殿に現れた。
絢香は、要に連れられて神社内の奥座敷へ向かう。
座敷に入ると要は棚から一冊の書物を取り出した。

「神子は、ここに来る途中で甘い香りを嗅いだりしたか?」

要は絢香と向かい合うように座ると、ページを捲る。

「うん。何か、頭の芯がぼうっとする感じの匂いだった」
「神子、お前の連れはここに辿り着けないかもしれない」
「え!?な、何で!?」
「神子達を惑わせた香りは、幻惑香の一種で感覚を麻痺させる毒性が非常に強い。非合法の禁術香ゆえ、香道に精通した者でも普段は作らない」
「……普段ってことは、必要があれば作ることもあるっていうこと?」

違法である幻惑香について、絢香は恐る恐る尋ねた。

「そうだ。言葉に力が宿るように、香にも力が宿る。穢れを祓う法具にもなれば、呪い殺す呪具にもなる」
「やっぱり、あの人が……」
「あの人?」
「さっき、この村の昔話を聞いたの。鬼の一族の話も聞いたわ」
「断じて、違う!!」

今まで表情を変えなかった要が急に眉根を吊り上げ、大声を張り上げた。

「……すまない、神子。だが、茉莉ではない。茉莉は香を知らない」

我に返った要は視線を落とし、口篭るように言った。

「ご、ごめん……なさい……」

要の怒った形相に驚いた絢香は身をすくませる。

「かまわん。神子、これを。必要があれば、使うと良い」

要は懐から龍の飾り細工が施された小さな香炉を取り出すと、絢香に渡す。
ほんのりと柑橘系の香りが絢香の鼻腔をくすぐった。

「あら?この香り、村に来る前に嗅いだのと同じ匂い?」
「幻惑香には柑橘類の覚醒香が有効的だ、幻惑香の匂いがきつ過ぎて神子しか助けられなかった」
「さっき崖に居たのは貴方だったのね?何で顔を隠していたの?」
「伊勢崎の当主はこの土地より外へは出られない、あれは伊勢崎家の仕来りだ。それに、あの時点では、神子に顔を見られるわけにはいかなかった」
「何だ、ちゃんと理由があったんだね」
「神子、祭りが始まる。龍神への奉納舞までだが、村を案内してやる」

そう言うと要は立ち上がり、夕日に染まった屋外へと歩き出す。

「うん、行く♪」

絢香は貰った香炉を懐に仕舞うと、要の後について行った。



「ここが、龍神が最初に降り立ったと言い伝えがある辰ノ淵だ。村人達からは登り龍の滝と言われている」

村を大体見て回り、黄昏時も過ぎて辺りが薄暗くなり始めた頃。
要は村から少し離れた所にある滝へと絢香を案内した。

「わぁ……」

空に浮かぶ明るい満月の光が滝を照らし、光の反射で滝の水がまるで滝を登る龍のように見えた。

「この地に降りた龍神の名はヴァルナ、滝の裏にヴァルナが使った神槍の矛を御神体とした小さな社がある。だが、未だかつて誰もその社を見た者はいない」
「どうして?」
「滝壷を見てみろ、この滝壷には底がない。この早い水の流れでは泳ぐのは不可能なうえ、抜け道などもない」

そう言われて絢香が覗いてみると、要の言った通り底が知れない深淵が広がっていた。

「うわっ、深そう……」
「神子、気をつけろ。落ちたらまず、助からない」

要は絢香の腕を掴んで自分の方へ引き寄せる。

「わわっ!?」

急に腕を引っ張られてバランスを崩した絢香を要が抱きとめた。

「怪我はないか、神子」
「……う、うん……」

初めて経験した出来事に、絢香は耳まで真っ赤に染めて小さく頷いた。
そこへ、数人の足音が近づいてくる。

「か、要様、大変でございます!!」

白い衣装に折烏帽子を被った氏子姿の男達が現れた。

「どうした?」
「死闘の舞で使う龍槍が、どこを探しても見当たらんのです!」

ここへ来る途中、走り回っていた氏子達は息を切らしながら話し始めた。

「何?宝物殿の確認はしたのか?」
「へい。同じ月桂樹から作られた兄弟柄の薙刀はありやしたが、龍槍だけが忽然と」
「……まずいな。レプリカといえど、アレは龍神ヴァルナが使った神槍を模した物。仕方が無い、薙刀を代用に使う。至急、舞の演目を薙刀演舞に切り替えるよう伝えてくれ」
「へい!!」

要の指示が出ると、氏子達は伊勢崎神社のある方角へと走り去って行った。

「神子、事情が変わった。一緒に来てくれ」
「槍、探さなくて良いの?何だったら探しておくけど」
「構うな、薙刀がある。何が起こるか解らん、一人にはなるな」

そう言うと要は伊勢崎神社へ歩き出し、絢香もそれについて歩き出した。
伊勢崎神社の舞殿には、要の演舞を一目見ようと沢山の人だかりが出来ている。
中には、人に化けた祭り好きの妖怪の姿もちらほらと混ざっていた。
絢香は要の計らいで、舞殿の最前列で演舞が始まるのを待つ。
そして、和楽の演奏が鳴り始めると木彫りで作られた龍の面を被った人物が現れた。
背格好や着ている衣装から、その人物が要だと用意に想像できる。
要は遠い神代で始まったこの地の龍神神話を、ストーリーに沿って精錬された見事な舞で力強く表現していた。
演舞は鬼との死闘の舞に移り、龍神ヴァルナに扮する要の手には柄に古代文字が書かれた薙刀がある。

「あー、あれがさっき言ってた薙刀か」

鬼の面を被った村人と戦う演舞をする要を眺めつつ、絢香が独り言を呟く。

『断じて、違う!!』

夕方奥座敷で叫んだ要を思い出し、村人や土地の自然に悪さをして退治された鬼を見る。

「何故、あそこまで庇うんだろう?」

絢香の小さな疑問は、鳴り響く和楽の演奏と人々の雑踏の中へと消えていった。


祭りも終わり深夜に近づく頃、絢香は伊勢崎神社の一室を借り横になる。
旅の疲れも合わさって、布団の中でまどろみ始めていると背中を向けていた襖が静かに開いた。

「……神子……」

耳元で優しい声が聞こえ、重たい瞼を少し開くと至近距離にある要の顔が映った。

「っ!!!??」

驚いて悲鳴を上げかけたが、すぐさま要の手が絢香の口を塞ぎ声にならない。

「神子、静かに。何者かが神社内に侵入した」

要はそう言うと絢香の口から手を離す。

「今、私の部屋に侵入してるのは貴方なんだけど?」
「そんなことより、侵入者は神社に張った結界を破った程の相手だ。神子は下がって壁に背を預けていてくれ」
「(そんなことって、お前……)わ、解った……」

絢香は心の中で文句を言いながら壁際へ移動する。
その時、勢いよく襖が開かれ中心に鬼と書かれた布で顔を隠した一人の人物が、絢香の居る方向へ持っていた槍を構えた。
しかし、その視線を遮るように要が立塞がり、持っていた薙刀を構える。

「お前、何者だ?何故、行方不明のヴァルナの神槍を持っている?」

螺旋を描くように昇る二匹の龍が装飾された槍を持つ相手を睨むが、相手は要の問いには答えない。
突然、相手は外に向かって走り出した。

「待て!!神子、お前はここに居ろ!何があっても外へは出るな!!!」
「うん、気をつけて!!」

絢香が頷くのを見ると、要は逃げた相手を追って出て行った。
夜に不釣合いな騒がしさが去ると、再び夜の静けさが絢香の周囲に戻る。
ふと、視線に気づき開け放たれている襖から庭に視線を向けた。

「誰?そこに誰か居るの?」

風に流れる雲間から月の光が見え隠れする庭に、一人佇む人影が映し出されていた。

「和泉」

とても落ち着いた若い男の声が絢香の名を呼ぶ。

「え?……せ、先生?」

この世界に居るわけがないと思いつつも、久しぶりに聞く教師の声を確かめようと庭に出た。

「息災であったか、和泉」
「あ、安倍先生……?え?何で?」

社会科教師の姿を見た絢香は混乱して、瞳をぱちくりとさせた。

「今言った所でしょうがない、もし次に会った時に覚えていたら教えてやろう」
「あ!そうだ、甘城先生が!!旧校舎で変な幽霊に襲われて!!」

この世界に来る切欠となった旧校舎での出来事を話すと、安倍は頷く。

「知っている。あの霊は滅せられた、甘城にも怪我はない」

安倍は何の感情もなく、淡々と答える。

「滅せられたの……?」

絢香は苦しみとも悲しみとも取れる呻き声を思い出し、哀れみの念が込み上げた。

「何を哀れむ必要がある、妖怪は人に害をなす化け物だ。妖怪に情など移せば、騙されて食われるだけだぞ」
「ち、違うわ!ちょっと怖いのも居るけど、優しくて頼りがいがあって心の温かい妖怪だって居るもの!!」

今は居ない仲間達を想い、絢香は叫んだ。

「まぁいい、すぐに解かる。妖怪に情を移したら、辛くなるのはお前だぞ」

それだけ言うと、安倍は去っていった。



同刻、絢香が庭で安倍と会っている頃。

「待て!!」

前を走る侵入者を追って、要は森の中を走る。
癖の無い真っ直ぐな短い黒髪が、風に靡いて揺れていた。
村の全体が一望できる崖まで来ると、不意に前の人物が立ち止まって要の方を振り返る。
そして顔を隠している布を取ると、素顔を要に晒した。

「お、お前……」

相手の素顔を見た要は一言呟くと、それっきり口を噤んだ。



翌朝、朝日が眩しく部屋を照らす頃。
昨夜のことが気にかかり、絢香は一睡も出来ないまま朝を迎えた。

「……マジ、眠い……」

脳みそを起こそうと、縁側で日光浴をしている絢香が一人呟く。
眼の下にはクマが出来ていた。

『ちょっと怖いのも居るけど、優しくて頼りがいがあって心の温かい妖怪だって居るもの!!』

昨日自分が言った言葉を思い返してみる。

「別に、間違ったこと言ってないよね……?寂しいなぁ、一人は。これじゃあ、東京に居た時と同じじゃないか……。皆どこに行っちゃったんだよぉ〜……、私を一人にしないでよ……」

絢香は俯いて流れでた涙を、袖口で乱暴に拭う。
しかし、急に外が悲鳴に混じり地を這うような気持ち悪い叫び声が聞こえ顔を上げた。

「神子!!無事か!!」

外に居たのだろうか、傷だらけの要が絢香の前に現れた。

「どうしたの!?」

驚きながら、絢香は要に駆け寄る。

「今、奇怪な現象が起きている。墓場の死者達が次々と墓穴から這い出て、次々に村人達を襲っている。お前だけでも、この村から逃げろ」
「そんなこと言われて、はい、そーですか何て私は言えないよ。私にも何か出来ることがあるかもしれない」
「そんなものは何もない!今の神子には何も出来ぬ!!故にだ、今ここで神子を死なすわけにはいかないのだ……」

絢香の両肩を強く掴み、要は必死に伝えた。

「……わ、解った……」

要の必死な形相に、絢香は渋々頷く。

「神子、昨日渡した香炉は持っているな?近いうちにそれが神子の役に立つ、失くさずに持っていろ」
「うん、ちゃんとあるよ」

絢香は懐を探ると、貰った香炉の存在を確認した。

「村全体が、何者かの強い妖力に包まれている。龍神の覚醒が出来ない今、神子を逃がすことしか出来ない」

要はそう言って薙刀を握り直すと、絢香の手を引いて走り出す。
裏口から神社の外へ出ると、肉の腐ったような異臭が村全体を覆っていた。

「うっ……」

絢香は口元を押さえ、必死に吐き気を押し殺す。
二人はそのまま草むらを突っ切り、道なき道を森の奥へと走りだした。
深い森の中で少しは腐臭が薄れたのか、絢香は呼吸を整えながら口を開く。

「村の人達は、どうなったのかな?」
「死者は、殺した人間を食らう。神社に戻る途中、もう殆が殺されていた。もう生きている者は居ないだろう」

呼吸が乱れている様子も無く、要は静かに神社の外で見た光景を話した。

「そ、そんな……」
「神子、辰ノ淵まで行く。走れるか?」

要は再び絢香の手を引こうと伸ばしたが、途中で止めて辺りを気にし始める。
周囲の異臭が濃くなっていた。

「囲まれたか」
「え!?」

周囲の草むらが揺れ、複数のギクシャクした足音が近づく。
数多くの死体が二人を取り囲んでいた。
肉が腐り、骨が見え隠れする手には、鎌や包丁などの殺傷能力がある物が握られている。
二人は本能で、この甦った死体達は自分達を狩に来たと悟った。

「神子、必ず神子は護る。何があってもこの手は離すな」

要は絢香の手を握っている左手に力を込める。

「うん」

絢香も要に握られている右手を強く握り返した。

「行くぞ!!」

要が走り出すのと同時に、死者達も襲い掛かってきた。
襲い掛かる死者達を薙刀でなぎ払い、道を切り開く。
数多くの死者達が追ってくる中、辰ノ淵を目指して二人は駆け抜けた。
近くに滝の音が聞こえてくる頃、突如一筋の閃光が要を貫く。

「クッ…!!妖狐の力か!!!」

右肩を打ち抜かれ、要は苦痛に顔を歪ませると薙刀を取り落とす。

「伊勢崎君!?」
「大事無い!!」

肩を砕く大怪我を負っても、要は絢香の手を離さず走り続けた。
辰ノ淵に出ると、周囲は清浄な空気が覆い滝の水は太陽の光を浴びて光り輝いている。
そこは、聖域と呼ぶに相応しい場所であった。

「神子、これを」

要は一つのペンダントを絢香の首にかける。

「これは?」

光の加減で、虹色に輝く鱗のような白い結晶のペンダントに触れる。

「伊勢崎に代々伝わる、龍の逆鱗だ。これが、必ず神子を最初の時間に戻してくれる」
「い、伊勢崎君は?貴方はどうするの?」
「………時間がない、ここも直ぐに死者達で溢れかえる。神子、お前は生きろ」

そう言うと要は、滝壺を背にして立つ絢香を軽く突き飛ばす。

「……だ、ダメ。伊勢崎君、ダメだよ……」

彼の最後の決意を見た絢香は手を伸ばしたが、要はその手を取らない。
絢香の首にかかった逆鱗のペンダントが強く輝き始める。

「神子、次こそは……どうか、忘れないでくれ」

強い光が絢香を包み、要の悲しそうな声が絢香の耳に響く。
要の体を龍神の槍が貫いた。