〜悲哀のサファイア〜
            人間界 1580年代 英国             エセックス伯爵邸             「おのれぇ……」             少し赤くなった頬を冷やしながら、エリザベス1世の寵臣エセックス伯が唸る。             アイルランド問題で枢密院の議論が白熱した時、横柄なふるまいをした彼を女王は平手打ちにしたのだ。             「議会の面前で、よくも恥を」             販売を独占している甘口ワインを一気に飲み干す。             「ひひっ、ご機嫌麗しくエセックス伯爵様」             気が立っている伯爵の前に、いつの間にかフードを被った老人が姿を現した。             「貴様!どこから忍び込んだ!!」             薄汚れたマントのフードを深く被った怪しい老人に伯爵はサーベルを抜き放つ。             「ひひっ、私めはただのしがない宝石商にございます」             「宝石商?ははぁん、思い出したぞ。貴様、女王陛下のもとで一度見たことある。              何でも、不可思議な力を持つ宝石を売ってるとか」             伯爵は下卑た笑いを浮かべ、小柄な老人のフードをサーベルで持ち上げる。             しかし、老人がミイラのような手でフードを押さえたため外すことは出来なかった。             「ひひっ。何のことやら。女王陛下が今日の詫びにとサファイアの首飾りを伯爵様に見せたいと              仰っておりますが、如何なさいますか?」             「ほほう、幸運が減ると言って人目に晒さなかった首飾りか。いいだろう、一見の価値はある」             伯爵は綺麗に手入れをしてある顎鬚を撫でると、出て行く。             その様子を一匹の蝙蝠が見ていた。             エリザベス1世の宝物殿に入り込んだ伯爵は、頑丈な額に入れられたサファイアの首飾りを眺める。             「ほう、これが。誰の目にも触れられない首飾り」             透き通るような美しい青を覗き込むが、時間が経つにつれ伯爵の顔色が悪くなり始めた。             「美しい……美しい……」             眼の焦点も合わなくなり、同じセリフを繰り返し呟き始めた。             「欲しい……欲しい……俺の物だ!!」             急に額を割り、首飾りを引っ掴む。             サファイアの部分だけを引き千切ると、伯爵はそのまま逃走した。             何かに憑かれたように森の中を走り回る。             前方に、肩に一匹の蝙蝠を乗せ、黒いシルクハットを被った男が立っていた。             シルクハットの影から赤い眼が覗く。             「な、何者だ」             サファイアを握り締めながら、伯爵が口を開く。             「愚劣な人間に名乗る名などない、お前の最期は反逆者として処刑される」             真っ赤な唇からは、ヴァンパイアの牙が現れる。             「貴様!!」             愚劣と言われ、頭に血が上った伯爵はサーベルを抜くとシルクハットを被った男に襲い掛かる。             「大君(おおきみ)!!」             肩の蝙蝠が叫ぶと、東洋系の少年に変わる。             長い袖に両手を隠し黒い拳法靴を履いた少年は、伯爵に鋭い蹴りを入れた。             木に頭を強打した伯爵は、そのまま気を失う。             「お怪我はありませぬか?エメロード大君」             少年は眼を静かに閉じたまま、エメロードと呼んだシルクハットの男に振り返る。             「ご苦労、リンドウ」             エメロードはリンドウの頭を撫でると、サファイアを手に取る。             「これが、悲哀の力を宿す宝石にございまするか」             「そうだ、持ち主の幸福を吸い取り悲哀に変えるコバルトブルー。              悲哀のサファイア、またの名を嘆きのサファイア」             「サファイアの回収、おめでとうござりまする」             「あぁ。存外あっけなかったが、まぁ良い。帰るぞ」             「承知致しましてござりまする」             エメロードとリンドウは陰に溶け込むように消え去った。