序章
 時は幕末元治元年六月(1864年7月)黒船来航から十年以上経った今でも日本国民の  大多数は尊王攘夷≠ニ言う天皇を尊び、夷敵(外国人)を排除する思想を掲げ、外人を  忌み嫌った。  そんな中、幕府も以前からの鎖国令に一層力を入れるが、諸外国との武力の差は大きく、  戦争は避けたい幕府側も無闇に手が出せないでいたのである。  洛西壬生村 京都守護職会津肥後守御預 新撰組屯所  「藤乃さーん!ふーじーのーさ〜ん!!」  屯所内に青年の声と盛大に廊下を走る音が響き渡った。  彼の名は沖田総司、ここ新撰組の一番隊隊長を務めており、天然理心流免許皆伝者である。  一方、すぐ近くの一室で薬を調合していた一人の女性が迷惑だ≠ニばかりに溜め息を  吐いた。  そして作りかけの薬草を愛用の薬研(やげん/薬草を擂り潰す道具)の中に残したまま立ち  上がると、部屋から顔を出す。  「総司、煩いよ。一体何?急患?」  彼女の名は小松藤乃、沖田と共に試衛館時代から居る古株である。  唯一、医療に長けた名軍医であり、隊内一の俊足の持ち主であった。  「あ、居た居た♪四条に新しい甘味処が出来たらしいですよ」  沖田は探していた藤乃を見つけると、子犬の様に駆け寄った。  「な〜んだ、そんな事か……」  てっきり急患が出たのかと思った藤乃は派拍子抜けし、調合の続きに戻った。  「え〜、少しは驚きましょうよ〜」  予想外の反応に沖田は不満を言いつつ、藤乃の隣に座った。  「残念、昨日山南さんに教えて貰った。で、それが如何したの?」  「そ、そうでしたか……(頑張れ、僕)あのですね、僕今日非番なんです。ですから行きません?」  「ほう、お前がそれを言うか……今ね、どっかの誰かの御陰で打ち身薬を作ってるんだよね」  調合の手を休め、藤乃は原因である沖田に軽く睨みを利かせた。  「うっ―――……(地雷踏んだ…)すいません……」  心当たりがあり過ぎる沖田は、冷や汗をかきつつ眼を逸らした。  「そう思うなら、手加減出来る様努力してね……何故か、私に苦情が来てるんだから」  中間管理職の代表的な地位に居る藤乃は、胃が痛くなる気がしてならなかった。  「なら、気晴らしに外に行きましょう!気分転換にもなりますし」  そう両手を叩いて言うと、沖田はさっそく藤乃の手を掴み外へ連れ出した。  ちょうどその頃、局長室では。  「……なぁ、トシ。本当にフジに言うのか?」  この部屋の部屋主である新撰組局長、近藤勇は監察方からの報告書を読みつつ言った。  「今更何言ってるんだ、近藤さん。藤乃が此処に居る目的を忘れたのか?」  トシと呼ばれた人物は眉間に皺を寄せ、キッパリと言い放った。  この人こそが二人目の副長にして、鉄の規律で新撰組を育て上げた人物土方歳三であった。  「違う、そう言う意味で言ったんじゃない。出来れば俺は、フジに刀を握って欲しくは無いんだ」  近藤の目が報告書に記された一つの名前に注がれた。  「だからアンタは甘ぇんだ。あいつはあの日を境に人で在る事を捨て、鬼となるべく俺達と来た。 それとも、アンタはあいつの決意と努力を無駄にする気か?」  「ちょっと待て、誰もそこまで言っていないだろ。行ったら、まず間違いなく斬り合いになる。 そうなれば命の保証が無い事くらい、お前も解っているだろう?」  そう言うと近藤は眉間に皺を寄せ、同じ様に眉間の皺が増している土方を見た。  「近藤さん、そりゃいらん世話だ。あいつもそれを承知の上だし、剣の腕も総司には劣るが、  俺が手塩にかけて育てた剣士だぜ?それに、アンタは過保護すぎなんだよ……」  土方は頬杖を突き、呆れて言った。  「そ、そうか?そんなつもりじゃ〜……」  「無いとは言わせねぇぜ。アンタ不器用モンだから、贔屓が露骨過ぎんだよ」  目を細めて言い逃れをする近藤の言葉を途中で遮ると、土方は意地悪く笑った。  「お前が言うな、自分の事を棚に上げて。この前だって、我侭聞いてやっていただろ?」    今度は仕返しとばかりに、自分と同じ様に露骨に贔屓していた事を暴露してやった。  「俺はいいんだ、兄貴だから」  近藤の攻撃をシレっとかわし、土方は立ち上がると縁側に向かって行った。  「横暴過ぎだぞ、トシ。大体、養子縁組して無いではないか?」  それを聞いた近藤は、開け放たれた襖に背を預けるへそ曲がりに苦笑しながら抗議した。  「聞えねぇなぁ〜、養子じゃなくてもあいつは俺の妹なんだよ。話は変るが、近藤さん。  桝屋喜右衛門、いや古高俊太郎の拷問が難行してるんだとよ」  勝ち誇った笑みで笑っていた土方は急に話題を変え、今度は不敵な笑みで拷問部屋を顎で指した。  「フジに見せまいと、あえて総司を非番にしたのは兄心と言う訳か?しかし、あれだけ拷問  して吐いたのは本名と出身国だけとなると……仕方無い、殺すなよトシ」  「そんなんじゃねぇよ、総司が非番だったのは偶然だ、偶然。安心しな、なるべく気を付ける」  「(偶然か…やっぱり、トシも贔屓が露骨だな)……頼むから、情報を聞き出すまで殺すなよ……」  あくまで偶然と言い張り、拷問部屋へ向かう土方に近藤は苦笑して見送る他無かった。  一方、上層部の思惑で市中を歩いていた藤乃が、ふと思い出した様に隣を歩く沖田に話かけた。  「そう言えば、こうして総司とゆっくり歩くの久しぶりだよね」  「えぇ、この頃毎日が多忙でしたからね」  「うん……でもさ、何で今日に限ってこんなに人口密度が多いんだ!?」  「あははは!仕方ありませんよ、今日は祇園祭前日なんですから」  唯でさえ、夏の暑い日に見渡す限りの活気有る人の群れ群れ群れ……。  段々、不機嫌になりつつある藤乃とは対照的に沖田は爆笑して答えた。  「アンタ、笑いすぎだから…。手、私がはぐれる」  藤乃はぶっきらぼうにそう言うと、さっさと沖田の腕を掴んでスタスタと歩いて行った。  「はいはい、我侭ですねぇ〜。はぐれないで下さいよ?」  沖田は強引に引っ張られつつ、喉の奥で笑いながら藤乃のペースに合わせて歩く。  「宗次郎!藤之助!」  二人が姉小路に差し掛かった時、一人の五〜六歳の少年に呼び止められた。  見ると、よく壬生寺境内で一緒に遊ぶ地元の子供達の一人、慎太であった。  因みに宗次郎とは沖田の幼名で、藤之助は男装時の藤乃の名前である。  「如何した、慎太?」  藤乃、否、藤之助が自分達を呼んだ慎太に駆け寄った。  「慎太、何を抱えているんですか?」  沖田が慎太の腕の中を覗き込んで言った。  「藤之助!お願い、コイツを助けて!」  慎太は焦りながら、腕に抱えていたモノを藤之助に差し出した。  「!!?これは……(呼吸音が擦れている、肋骨が刺さっているな……)一体、何があった?」  藤之助が受け取ったモノとは、血だらけになって瀕死の重傷を負った白い仔狐であった。  「さっき、早馬(はやうま)が走って来る所にコイツが急に飛び出して来て。   そうしたら、動かなくなって、血も出て来るし、藤之助に診せなきゃと思って……コイツ、死ぬの?」  余程驚いたのか、次第に涙声になっていく慎太の頭を藤之助は優しく撫でた。  早馬とは、電話や電報が無かったこの時代に頻繁に使われた緊急連絡手段であった。  「よく知らせてくれた。心配するな、必ず助かる。この私に診せたんだ、死ぬ訳が無いだろ?」  「うん!絶対、助けてやってね!」  その慎太の言葉に藤之助は力強く頷くと、沖田に手術準備を指示すると藤之助も気を引き締める。  新撰組の名を全国へ知らしめた池田屋事変、数時間前の事であった。