御陵衛士
    慶応三年(1867年)三月 伊東は正式に天皇からの命を受け、御陵衛士となった一派を引き連れると新撰組を離脱した。 表向きは意見の相違による分派とされたが、隊規に照らせば立派な脱走に他ならなかった。 屯所は高台寺にある、月心院に屯所を構える。(のちの高台寺党である) 当然、伊東派となった藤乃と斎藤も御陵衛士屯所に身を置いた。 「とうとう来たね、これからが大変だよハジメ」 月心院を眺めつつ、藤乃は隣に居る斎藤に呟く。 「うむ。だが、何かと外出が多くなる君の方が間者に疑われ易い。バレぬ様、気を付けろ」 藤乃の声に斎藤も静かに答えた。 「平気平気、参謀…いや、伊東さんが、殺せと言い出さない限り死なないから」 「ここは敵地だ、油断するな」 「ハジメは、力み過ぎ。もう少し、肩の力を抜きなよ〜」 余裕で笑う藤乃に斎藤は半ば呆れつつ叱咤するが、藤乃は笑って聞き流した。 今宵は御陵衛士の門出を祝う、宴会であった。 同年六月、これまでの働きが認められ、新撰組が幕臣に取り立てられた。 今や御陵衛士の同志となった藤乃と斎藤も心中では嬉しがっていたが、敵地の為公に出来ない。 そんな折、酒の入った酒瓶と盃を二つ持った藤乃が斎藤の部屋を訪れた。 「ハジメ、入るよ」 そう言って襖を開けると、斎藤は室内で読書をしていた。 「あぁ……小松君か」 声をかけられた事に気付き、斎藤は見台に置いた書物を閉じると顔を向けた。 「知ってた?新撰組が幕臣に取り立てられたんだって♪」 「あぁ、先日土方さんに状況報告に行った折に聞かされた」 「えー!?何故、言ってくれなかったの!こっちは、最近知ったのに〜」 「言えば、祝辞を述べに新撰組屯所に走るであろう」 目の前で憤慨する藤乃に対し、斎藤は冷静に斬り捨てる。 図星を指摘され、藤乃も口を噤む他無かった。 「まぁ、良いや。はい、ささやかな祝宴の用意」 そう言うと藤乃は徳利を置き、盃を一つ斎藤に渡した。 「敵地で祝宴とは、正に命懸けの祝宴だな」 盃を受け取りつつ、斎藤がポツリと零した。 「良いじゃん、命懸けの祝宴。新撰組の為なら、喜んでやるよ」 そう笑うと、藤乃は自分と斎藤の盃に酒を注いだ。 「沖田君が知ったら、騒ぎ出す所だな」 斎藤は微かに表情を和らげ、礼の代わりに盃を少し持ち上げた。 「アハハ〜!え〜、では、新撰組の栄光と発展を願いまして。乾杯!」 藤乃がそう乾杯の音頭を取ると、二人は盃を軽く持ち上げ乾杯した。 「実はね、私、野望が有るのだよ」 空になった白磁の盃の底を見詰め、わざとらしく口調を変えた藤乃が零した。 「ほう、その野望とは?」 「新撰組の局長になるの。だから、近藤先生には今以上に頑張って頂いて大名になって貰うの。 土方さんは、その家臣。そしたら、その藩兵は新撰組で決まりでしょ?」 「今の局長は老中格並だ、大名も不可能では無い。無論、土方さんもそう考えているだろう」 「でね、ハジメが副長で。参謀には平助にしようと思っていたんだけど…もう駄目だと思うから まだ空席。総司には、総隊長と言うポストを新たに作って、最前線で指揮を執らせるんだ〜♪  総司は剣が好きだから、戦前に出した方が良いし、きっと近藤先生も喜んでくれる。何より、  引退した土方さんの悔しがる顔が目に浮ぶよ〜アハハハ♪」 そう言って楽しそうに次世代の新撰組を思い描く藤乃の話を、斎藤も微笑みながら聞いていた。 同年十月、将軍徳川慶喜が大政奉還をなされた。 現新撰組屯所となっている不動堂村屯所に帰った藤乃と斎藤も近藤の口から事の次第を聞く。 徳川の権力は地に落ち、もはや幕府に影響力は無くなりつつある事を全国に知らしめた。 「大政奉還か……坂本さん、これが貴方の言う新しい日本ですか?薩長の奸賊が、己の私利私欲  の為に長年続いた徳川恩顧に泥を塗る事が。認めませんよ、そんな事……!」 藤乃は一番隊と共に深夜巡察に出かけ、乱闘の末斬り捨てた薩摩藩士を見詰めつつ呟いた。 明くる十一月、月心院に戻った藤乃個人の下に、偽名を使った坂本からの手紙が届けられる。 その手紙に一通り眼を通すと顔色を変え、手紙をゴミ箱に突っ込んだ。 一連の行動を見られていなかったか辺りを見渡すと、足早に出かけて行く。 指定場所の近江屋に来ると、藤乃は一度だけ振り向くと誰も居ない事を確かめ、中へと入った。 「才谷梅太郎って言うのは、貴方ですか?坂本さん」 女中に案内された藤乃は、襖の戸を開けつつ友人の中岡慎太郎と居た坂本に言った。 「おまん、何モンじゃ!?」 「落ち着きぃや、慎太郎。イエース♪こうでもせんと、おんしとはゆっくり話も出来んがや」 急な来客に驚き、刀を構えた中岡を諌めつつ坂本は朗らかに言った。 「龍馬、こやつは何モンじゃ?」 刀を収めつつ、中岡が問うた。 「けったいな事を聞くのぉ、おまんは。さっきも話したじゃろ、ナリこそ男児やが、この娘が  あん人の娘御の藤乃ぜよ」 「お……おぉ!?おまん…否、おんしが……会えて光栄じゃ〜!!」 最初は警戒して居た中岡も藤乃の正体を知った途端、目の色を変え大袈裟に握手をする。 「あ、はぁ…どうも……」 印象がガラリと変わった中岡に、大袈裟に手を繋がれた藤乃は戸惑いつつも会釈で返した。 「アハハハ!ミーハーじゃのぉ、慎太郎は」 戸惑う藤乃と対照的にテンションを上げる中岡と見つつ、酒を呷った坂本は笑った。 「ほたえな、龍馬!」 我に返った中岡は、横からからかう坂本に赤面しつつ声を荒げた。 ほたえな≠ニは、煩いの意。 「坂本さん、今日私がここへ来たのは、貴方に呼ばれたからだけではありません。伊東先生から  託を受けて来ました。何者かが藩ぐるみで坂本さんを狙っています、用心して下さい」 先程女中が置いて行ったのか、一人分の新しい膳の前に座ると藤乃は目の前の坂本に言った。 「もう新撰組が嗅ぎ付けて来よったか」 中岡が立ち上がり、警戒して窓から外の様子を窺った。 「そんなん、如何でもエエが。藤乃、わしが率いとるのに海援隊ちゅうモンがあってな。  そこのモン全員、忠義に篤いエエ奴等ばかりやき。今度、おんしにも会わせてやるぜよ」 「私に入れと?」 笑って部下自慢を始める坂本に、藤乃は真剣に答えた。 「こいつ、海援隊全員におんしの事を話よったんじゃ……」 「そしたら、会わせろ騒ぎだしよるきに」 窓付近の壁に背を預け呆れて言う中岡の後を引き継ぎ、苦笑した坂本が両手を目の前に合わせ た。 「何を言ったんですか?」 二人の表情から状況を察した藤乃も、中岡と同様に呆れて坂本を見た。 「事実も噂も全てじゃ。おんしはあそこに居るべきモンじゃ無か、刀から身を引くぜよ」 さっきとは打って変わり、悲痛な面持ちで静かに坂本は言う。 その言葉に言い返そうと口を開きかけたが、突然襖の戸が勢い良く開いた。 「!?何故……?(何故バレたの?跡を付けられていたのか……)」 抜き身の刀を持った人物と顔見知りであった藤乃は、驚愕の表情で相手を見詰めていた。 突如斬り掛って来た相手に、坂本は自分の刀に手を掛けたが一瞬にして背中を斬られる。 即死であった。 「龍馬ァ――〜〜!!」 坂本の名を呼び、駆け付けた中岡もその人物に深手を負わされ意識を失う。 藤乃はこの現状に手を貸す訳でも無く、唯静かに見ていた。 「坂本さん、何故あの時薩長同盟を止めて下さらなかったんですか?もう少し、遅ければ貴方は  今日ここで死ぬ事は無かった。私がここへ来た本当の目的は、元参謀の託を託されたからでは 無いんです。唯の命令ですよ、私は貴方がたの意識を外に向けない為の餌だったんです」 全てが終り、静かになった室内に藤乃の声が嫌に大きく響いた。 「ねぇ、何故今日の事を貴方が知っていたの?坂本さんからの手紙は月心院の自室で読んだの  に」 刀を収め、血が飛び散った室内に立っていた人物に藤乃は問うが、その人物は黙秘を貫いた。 「後ろ盾は誰?と訊いてもどうせ答えてはくれないんでしょ。でも良いわ、貴方が来たなら少な  くとも坂本さんを斬ったのは新撰組隊士じゃ無いって言うのが証明されたから」 満足そうに笑った藤乃を一瞥したその人物は、ここに居る用も無くなり足早に去って行った。 「……海援隊、か。けっこう、面倒な事になりそうだ」 坂本のカリスマ性を知っていた藤乃は今後、起こるであろう不測の事態に備え、小さく溜め 息を吐いた。 当初、現場に残された物から新撰組が犯人と思われていたが、その後真犯人が新たに浮上する。 急激に力を付けつつある藩の影が見え隠れした事件であった。 だが、坂本龍馬暗殺の詳しい過程が判明せず、今なお、異説が数多く残されている。