言葉の鎖
『嫌だ!如何して、母上は毎日私の邪魔をするのですか!?母上なんか……大っ嫌いだ!!!』 幼い自分を見詰め、毎度出てくる同じ場面でここが夢だと気付く。 初めて反論した娘を前にし、驚いた母親の顔は今でも忘れられない。 何度目かに聞く母親の言葉と姿が容易に想像出来、堪らず眼を背けた。 『ねぇ、如何してお前は、父上と母上を殺すのです?何故こんな惨い仕打ちを母にするのです?  お前さえ生まれて来なければ、父と母は死なずに済みました。お前さえ、生まなければこんな  痛い思いしなくて済みました。ねぇ、如何してお前は――……』 そう言うと血塗れの母親は、眼を背けた藤乃の顔の前に立ち、瞳孔が開いた瞳で眼を合わせる。 藤乃が驚いて後ろに仰け反るのと同時に眼が覚めると言うパターンが毎晩続いていた。 流れ落ちた涙を手で拭いつつ、時計の文字盤を見ると午前二時を過ぎた所である。 隊服を肩に羽織、廊下の雨戸を少し開けると、細かな霙が降っていた。 『大っ嫌いだ!!!』 「……ごめんなさい、ごめんなさい母上。もう、許してはくれないだろうけど……」 水溜りに溶けて消える霙を眺めつつ、幼い頃の過ちを悔い悩む。 朝陽が空を朱に染めるまで、藤乃は雨戸に身体を預けて立っていた。 「……乃…藤乃……藤乃!藤乃!!」 「へっ?あ、はい。何でしょう?」 眼の前で手を振っている近藤に、はっと我返った藤乃は慌てて取り繕った。 「何でしょう?じゃねぇ!お前、俺の話聞いていたか」 眉間の皺を普段の倍に増やし、土方は藤乃を怒鳴りつけた。 「え…あ…済みません……」 「まあまあトシ、そう怒鳴る事も無いだろう。フジ、総司と江戸に発ってくれないか?」 視線を落とし、反省の意を示す藤乃を庇う様に近藤が土方を宥める。 『刀を、捨てて下さい――………』 今一番聞きたくなかった名を聞いた途端、昨夜言われた言葉が思い出された。 「……何故、ですか?」 「江戸にまた、隊士募集をしに行ってもらおうと思ってな」 少し渋って言う藤乃に、事情を知らない近藤は笑って答えた。 「では、私で無くとも。以前の様に、副長として土方さんが出向けば――……」 「総司の母御が危篤なんだ、これはお前にしか出来ない仕事だろう?」 頑として拒む藤乃の言葉を遮り、真剣な表情で土方が答える。 土方に重い言葉で諭され、一瞬顔を曇らせた藤乃は小さく頷いた。 出発は三日と空けずに行なわれた。 初めは母親の心配で口数が極端に少なかった沖田も、江戸に近付くに連れて元の明るさを取り 戻す。が、昨日の事が嘘の様に接して来る沖田に藤乃は戸惑いを隠せないでいた。 「多摩ですね……」 共に連れて来た数人の隊士達を江戸中心部の宿に着かせると、二人は故郷の地を踏む。 遠くに見える高尾山を眺め、沖田は懐かしそうに呟いた。 「ねぇ、昨日の事なんだけど」 「家はこっちです、日野の郊外なので少し歩きますよ」 意を決して昨日の事を問い質そう声を掛けた藤乃に対し、沖田は聞えないフリをし、さっさと 踵を返して歩き出してしまった。 「只今、戻りました」 日野郊外に向かい数分後、沖田は一軒の農家の戸を開ける。 その沖田の声に、ここの家人と思われる女性と男性が待ち兼ねた様に慌てて出て来た。 「宗次郎、元気そうで良かったわ!」 「こらミツ、もう宗次郎では無いだろ。お帰り、総司。そちらの方が、手紙の方かい?」 沖田を幼名で呼んだ女性は、嬉しそうに隣で微笑む旦那と変わらない身長の沖田に抱きつく。 話だけで実際に会った事が無かった藤乃でも、沖田の姉と義兄である事は容易に想像が出来た。 「はい、義兄上(あにうえ)。こちらが、日本一の名医の藤乃さんです」 「お初にお目にかかります、日本一ではありませんが、医者をしております小松と申します」 喧嘩しているとは言え、礼を弁えない程無礼ではない藤乃は沖田の紹介に深々と頭を下げた。 「義兄の沖田林太郎です、遠路遥々有難う御座います」 「姉のミツです、どうぞ母を宜しくお願いします」 京から来た客に姉夫婦も膝を付き、頭を垂れる。 ミツから母親の寝室を聞くと、藤乃は三人を居間に残し、単身で母ナオの所へと向かった。 「失礼します、小松です。往診に参りました」 閉ざされている襖の戸の前に立ち、藤乃は声を掛ける。中から小さく「どうぞ」と言う声がし た。 了承を得た藤乃は静かに戸を開けたが、横になっていると思っていた人物が布団の上に正座して 待っていた姿を見つけ息を飲む。 「京よりご足労掛けまして、申し訳御座いません」 「何を言うんですか、病を治すのが医者の役目です。どうか、横になって下さい」 痩せ細った両腕を前に出し深く頭を下げるナオに対し、藤乃は驚きつつもナオの身体を支えた。 「出来ません、病に臥してもこの老婆は武門の女。女性の方でも、ニ本差しのお武家様を寝て  待つなど言語道断で御座います」 頑として頭を上げないナオに、藤乃は内心焦りつつも診察と称して横にさせる事に成功した。 診察中はお互い一言も喋らず、使う医療器具の音だけが室内に響く。 因みに、二本差しとは当時、侍を指して言った言葉である。 「(凄い方だ、持ってあと一ヶ月。人知れず、苦痛を耐え忍んで居られたのか……)」 診察が終り、使っていた聴診器を置くと弱まる命の炎を前にして小さな溜め息を吐く。 が、ナオの視線に気付き眼を向けた。 「……あと、どのくらい生きて居られるのでしょうか?」 もう気付いて居るのか、優しい眼差しを向けて言うナオの言葉が藤乃に重く圧し掛かって来た。 「……持ってあと一ヶ月です、伝染型の肺病でした。この病は、遺伝する恐れがあると最近の  研究でも明らかになりました。申し訳ありません、特効薬は未だ出来ては居りません」 沖田と同じ病を抱えるナオに、手立てが無い事を悔みつつ断腸の思いで報告した。 「貴女様の所為では、御座いません。総司を、宜しくお願いします」 「………はい」 多意を含んだナオの願いに、その言葉を奥歯で噛み締めながら藤乃は頷いた。 数分後、沖田と藤乃が家を後にしたのち、ミツは母を傍で問い掛けた。 「母上、小松さんから聞きましたよ。横にならずに座って居たそうですね?」 「状況が如何であれ、息子が想い人を連れて来る日にだらしない格好では居られないでしょ?」 そう言うとナオは、藤乃が調合した薬を口に含み、水で流した。 「何処に行かれるのですか?」 家からの帰り道、沖田は自分の前を早歩きで歩く藤乃に声を掛けた。 「京に帰るの。本来、私の仕事の目的は隊士募集じゃ無いから」 「何を言って居るんですか、未だ貴女にはやらなければならない事が在る筈ですよ」 振り向きもせずに一息で捲し上げる藤乃に、沖田はやんわりと答える。 十二年間と言う腐れ縁の前では流石に隠し事も通らず、何かに気付いて居る沖田を一睨みすると 藤乃は西に向かっていた足を止め、村の墓地が在る方へ踵を返した。 六年振りに自家の墓前に立ち、藤乃は胃に鈍い痛みを感じる。 たまに人が来ているのか、多少の雑草は生えているものの、花と線香はちゃんとあった。 『ねぇ、如何してお前は、父上と母上を殺すのです?』 昨夜の夢を思い出し、止めてとばかりに藤乃は瞳を閉じ、耳を塞いだ。 十二月の寒風が、周りの木々を揺らしざわめく。 「ごめんなさい母上、この世に生を受けた事を、これ程悔んだ事はありません。医者になった  事も、剣を始めた事も今は後悔しています。それでも未だ呪うなら、私はもう――……」 閉じた瞼から数滴の涙を流して唱えるが、耳を塞ぐ冷たい手を温かい何かが包み言葉を切らせ る。 瞳を開き、涙で曇らせた視界でも包んだ物が大きな手だと言う事は容易に想像が付いた。 「全ては、子供の興味本意から来る探究心だった……」 静かに後ろに佇む人に、藤乃は長年の思いを吐き出した。 「偶然開いた医学書が面白くて、活字を追う私の頭を母は嬉しそうに撫でてくれた。率直な感想  を述べる私を、父は誇らしげに笑った。最初は唯、子供ながらに可愛がって欲しかった。けど、  それがいけなかった……次第に周囲に天才だと言われる様になって、私は他の人とは違う  んだと思う様になって行ったわ。そうしたらもう、自制心が効かないの……天才の地位を不動  の物にしたくて、研究にのめり込んで行った」 ここで一呼吸置いた。 「今となっては自業自得ね、噂を聞き付けた医者達が私の元を訪れる様になったわ。初めは一人  二人だったけど、三、四人で来る様になってから両親は危機感を持ったのね、人が尋ねて来る 度に、私は二階に閉じ込められた。あぁ、私は何か両親に恥を掻かせる事をしたのだろうか? 事情が解らなかった私は、薄暗い物置の中で幼心に不安になったわ。竹刀を見たのもちょうど その頃よ。暇潰しに始めたものが、こんなに長続きするとは思っても見なかったけど」 そう言うと藤乃はゆっくりと振り向いた。 「良かったわね、思い通りになって。言われた通り刀は捨てる、人の斬り方を忘れた者は新撰組  に居る資格は無いからね。士道不覚悟にて、切腹す――……」 自虐的に笑う藤乃の両頬に沖田は両手を添えて勢い良く顔を引き寄せた。 一瞬だけであったが唇を塞さぐと、最後の言葉を区切らせる。 驚き目を見開く藤乃の身体を優しく抱き締めた。 「ごめんなさい、僕は貴女の事を誰よりも解っていると自負していました。ですが、実際は  何も解ってはいなかったのですね……」 そう呟きつつ、抱き締める力を強めた。 「刀を捨てさせる事が貴女救う事だと今まで思い、貴女の為でもあると信じて疑いませんでし  た。初めは私怨で続けていた暇潰しの剣術も、今では医学の研究と同様刀に魅せられ好きに  なった。だから、今まで両立し続けて来れたんです」 「刀が…好き……?」 沖田の優しい心音に耳を当てながら、解らない子供が考える様に言葉を復唱した。 「えぇ、好きなんですよ僕と同様に貴女も剣が。ですが、僕は貴女が好きで、好きで堪らない!  僕が生きて居られる間に、貴女を刀から遠ざけたかった……死とは無縁で、末永く生き続けて  居られる道を見つけて欲しかった……!」 声を詰らせ、搾り出す様言葉の後に藤乃の頬に数滴の滴が滴り落ちる。 藤乃は雨だと思い見上げたが、滴の正体は雨では無く、沖田の瞳から流された物であった。 「何故、総司が泣くの……?」 藤乃は胸が押し潰される様なこの感情の正体が解らず、心を痛ませながら手で涙に触れた。 「貴女の涙ですよ、人前で泣かない貴女の代りに僕が泣くんです……歯痒いんですよ、頼り無い  僕が……そして悔しいんです、全部一人で抱え込んで何一つ言ってくれない事が」 「止めて…私の為に泣いたりなんてしないで……私、色んな人に呪われて居るのよ?だから、  皆次々と私の周りから消えて行くのよ……」 以前、筆頭局長の芹沢を討伐した際にお梅に言われた事を思い出して呟いた。 「その言葉の鎖、貴女自身の手で断ち切りましょう。僕は、貴女を置いて死んだりしません。  僕が貴女を許します、きっと御両親も怨んでは居ないと思いますよ」 「……ずっと、その言葉が聞きたかった。怖かった…ずっと許され無いと思って……」 長年待ち望んだ救いの言葉を掛けられ、藤乃は止めど無く溢れ出る涙を止める事が出来なかっ た。 「藤乃さん、僕は貴女を愛しています。共に生きて下さいませんか?」 今度は沖田が藤乃の涙を手で拭いながら微笑んだ。 「……やっと解った、この胸の痛みが何なのか。私も好き、愛してる。けど、刀は…是だけ は…」 人を愛する事を知り、藤乃は心を愛と誠の間に揺れ動かせると愛刀を抱え、顔を曇らせた。 「解っていますよ、土方さんから貰った大切な相棒なのでしょう?これからも、共に刀を握って  行きましょうね」 笑って言う沖田の言葉に、泣き止んだ藤乃も微笑んで頷く。 風に流れた雲の隙間から、暖かな光が差し込んだ。