新撰組崩壊
藤乃と沖田が数名の新人隊士を引き連れ屯所へ戻ったが、一週間も経たない内に倒幕派から現代 史に有名な王制復古の大号令が発せられる。長年続いた藩幕体制が終りを告げ、徳川慶喜は大阪 へと退却し、新撰組もまた不動堂屯所から伏見の奉行所に移動して行った。 約三週間後、二条城の軍議に呼ばれていた近藤は数名の供を連れ意気揚揚と馬で出て行った。 とある場所の草むらに、銃を片手に数人の男達が身を潜めている。 「加納、手筈の確認は出来ているか?」 「篠原さんが近藤を狙えば、早い話なのでは?」 元御陵衛士の篠原の問いに、同じく元御陵衛士の加納が自前のやる気の無い声で問い返した。 「相手は馬だ、舐めてかかると取り逃がすぞ」 屁理屈で返す加納に怒気を孕んだ声で諭す。 「はいはい、篠原さんが馬を撃ったら、俺が近藤を撃つんでしたっけ?」 「そうだ。少しでも、俺達を養って下さっている大久保様にご恩返しをしなければな」 「クク、ご恩ねぇ〜」 加納は意味深げに答えると、軍議を終えて伏見へ帰る途中の近藤に銃の照準を合わせる。 油小路から一ヶ月後の復讐劇であった。 「白夜?如何したの?」 突然、伏せの姿勢で首だけ上げた白夜に、藤乃は薬の調合をしていた手を止める。 時が経ち、大型犬程まで成長した狐にかつての幼さは無く、大きな瞳で襖を見詰め続けていた。 藤乃もその視線の先に眼をやると、次第に廊下を走る足音が近付いて来る。 「小松先生!すぐ来て下さい、局長が……局長が!!」 急に襖が開いたと思ったら、市村が転がる様にして部屋へと駆け込んで来た。 「何!?近藤先生が如何したの!?」 余りの慌て様に驚きつつも、藤乃は市村を支え起こしながら問うた。 「二条城からの帰り、何者かに狙撃されたそうです。今、副長が部屋へ運んでいます」 乱れた息を整えつつ市村は答える。 「先生が!?何処!何処を撃たれたの!!」 「肩です、右肩を撃たれていますが生きています」 血相を変えうろたえながら藤乃が問い詰めると、市村は刺激しない様言葉を選びながら答えた。 「……解った。私が行くまで、湯を張った桶と綺麗な布を出来るだけ多く集めて置いて」 生きているの言葉に落ち着きを取り戻した藤乃は襷を掛けて服の袖を処理し、市村に指示を出 す。 「は、はい!」 指示を受けた市村は、再び走り去って行った。 「近藤先生!先生、しっかりしてください!!」 近藤に麻酔をかける前に、傷の具合を診ながら藤乃は声をかけた。 「くっ…うっ……」 藤乃の声に薄く眼を開けた近藤であったが、再び肩の激痛に襲われ苦痛に喘いだ。 「(銃弾が体内に残っている、早く取り出さなきゃ)先生、麻酔しますね」 弾が貫通していない事に気付いた藤乃は、声をかけつつ肩に麻酔を施した。 そして、手馴れた手付きで患部を執刀して行く。 数分で体内にあった銃弾を取り出す事に成功した。 「(酷い…肩の骨が粉々になってる……これじゃあ、もう刀は……)」 神経の細部にまで砕けた骨の欠片が入り込んでいるのを見ると、藤乃は顔を曇らせた。 「フ…ジ……俺の肩は、治るのか……?」 縫合作業に取り掛かっていた藤乃に、近藤は眼だけを向けて問うた。 「……大丈夫ですよ、心配しなくても。無理をなさらなければ、すぐ治ります」 本当の事が言えず、咄嗟に嘘が口を衝いて出て来た。 「……そうか。今は幕府が揺れる大事な時だ、皆の為にも早く良くならなければな……」 近藤は痛みを耐え弱々しく微笑むと、麻酔から来る眠気に次第に瞳を閉じる。 取り出した銃弾を握り締め、藤乃は静かに部屋を後にした。 「手術は成功した様だな」 近藤の部屋から出ると、待っていた土方が声をかけた。 「えぇ、何とか……肩の骨が砕けてしまって、もう以前の様には刀は振れないと思います」 「……そうか、ご苦労だった」 顔を伏して報せられた辛い報告に、土方は瞳を閉じて噛み締めつつ応えた。 「先生の体内から銃弾が出て来ました。多分、新式銃の銃弾だと思います」 そう言って手にしていた弾を土方の手の平に乗せた。 「確かに、見たこともねぇ弾だな」 「……っう!?」 まじまじと手にした弾を見ていた横で、急な眩暈と吐き気に襲われた藤乃は口元を押えつつ 近くの柱に寄り掛かった。 「藤乃!?如何した、大丈夫か?」 土方は倒れない様、支えてやりつつ藤乃に問うた。 「え、まぁ…何とか…うっ(これは…もしや……)」 「大丈夫じゃねぇだろ、顔が真っ青だぜ。今誰かに、松本先生を呼びに大阪まで使いを出して  やるからそれまで部屋で大人しくしていろ」 再び吐き気に襲われた藤乃を気遣いつつ、土方は藤乃を抱え歩き出した。 数分後、吐き気が収まった藤乃は再び吐き気の波が来る前に、急いで外出の仕度を整え始めた。 「山崎さん、近藤先生が狙撃された場所は解りましたか?」 ちょうど外から帰って来た山崎を捕まえ、調査報告を聞き出した。 「詳しい場所の特定は出来ませんでしたが、墨染めから丹波橋の間の竹林でした」 「そう……少し距離があるな……(馬を使うか……)」 藤乃の最後の呟きが聞え、山崎は応えた。 「今から行かれるのですか?もう、監察の検分後なので何も残ってはいませんよ」 「良いの、有難う」 そう言って山崎と別れ、藤乃はうまや厩に向かい歩き出して行った。 馬に跨ると一路、丹波橋を目指して馬を飛ばして行く。 墨染めまでの竹林内には人一人居らず、竹林内が余計静かに感じられた。 「(まだ微かに火薬の匂いが残っている)この辺りか……」 馬から降りると注意深く辺りを見渡す、竹の隙間から木漏れ日が照らしている。 近くの草むらに足を踏み入れた。 「……ん?これは、薬莢かな?」 草葉の陰に落ちていた金属を拾い、まじまじと見詰める。が、頭の後ろで小さく金属音がした。 「クク、ご名答ですよ。最近の銃は性能こそ良いが、証拠が残っていけない」 「その声は……生きていたのか、加納」 聞き覚えのある口調が聞え、後頭部に銃を突き付ける相手の名を呼んだ。 「えぇ、御陰様で地獄から這い上がって来ましたよ」 「冗談にしては笑えないね、御陵衛士の残党。君、主人の仇討ちをする様な真面目君だった?」 銃を突き付けられている為、藤乃は振り向かずに問う。 「いいえ、篠原さんもおめでたい人ですよね。利用出来るから生かされているのに、養って貰っ  ていると勝手に思い込んでいる。俺はね、仇討ちとか、そんな面倒な事の為に働いている訳  じゃないんです。単に戦いたいんですよ、強い奴と。この国全体で戦が起これば、数多の血肉  を斬った強い奴しか生き残らない。その為なら、大将を射抜く事なんて造作も無いんですよ」 「お前が、先生を撃ったのか……?」 事も無げに言う加納に腹が立ち、藤乃は殺気を孕んだ声で凄んだ。 「お互い様でしょう?あぁ、そうだ。今ここでアンタを殺せば、天才剣士と誉れ高い沖田さんも  その気になってくれますよね。俺、一度あの人と戦ってみたかったんです」 そう言うと加納は銃の引き金に掛けた指に力を入れる。が、突然加納がうめいた。 状況が飲み込めず、藤乃が振り向いて見ると。手首から血を流し、見慣れた白い狐に銃口を 向ける加納が見て取れた。 「うっ、ぐっ。この――……!」 「白夜!!」 銃が火を噴いたのと同時に、藤乃が叫ぶ。白夜は勘を働かせ、数発の銃弾を軽々と回避した。 「ちっ、今日の所は退かせて貰います。国内戦争の前に死ぬのはご免なのでね」 懐紙を手首の噛み傷に当て、それだけ言うと加納は去って行った。 主人の危機に駆け付けた狐は、相手の男が見えなくなるまで唸り声を上げ、威嚇し続ける。 「白夜、有難う助けに来てくれたんだね」 危機一髪命拾いした藤乃は感謝の意を込め、白き騎士の頭を撫で上げた。 「それにしても、良くここが解ったわね。お前、ひょっとしてエスパー?」 タイミング良く現れた青年狐に真顔で問うが、狐が答える筈も無く、白を切る様に欠伸を一つ すると普段の様に腹這いになって伏せた。 「おのれぇ、どこまでもマイペースな奴め……」 両前足に首を乗せ、完全に休息の姿勢になった白夜をジト眼で見やる。 気を取り直して再び、周囲の捜索を再開した。 しかし、山崎が言っていた通りに検分が終わった後の為、薬莢が一つ見つけられただけで他は 何も見つける事が出来ずに諦める。 今日の出来事を絶対に忘れまいと、胸にしっかりと刻みつけた。 二日後、大阪から松本良順が伏見の奉行所を訪れた。 近藤の肩の傷と、結核が悪化し、等々病床から起き上がれなくなった沖田の診察を済ませたのち、今度は藤乃を診ると言い出し始める。 「ですから何度も言うように、私はどこも悪くありませんから結構です!」 「土方の証言もあるんだ、つべこべ言わずに大人しくしやがれ!」 頑として拒む藤乃を前にし、松本は眉間の皺を土方並に刻みつつ言い放つ。 「断固拒否!絶対拒否!死んでも拒否!」 「てぇめぇ〜、良い度胸じゃねぇか。自分の師匠が、唯の医者だと思ったら大間違いだぞコラ」 押入れの内側から戸を押えつつ宣言する弟子に、松本は両手の指の関節を鳴らしながら凄む。 が、すぐに大きな溜め息を吐くと押入れの前に腰を下ろした。 「そう言う所はちっとも変わってねぇな、昔も何かあるとすぐ押入れに篭っていたっけか……  その様子だと、体調不良の原因は解っている様だな。お前、基礎体温は上昇していたか?」 松本は昔の事を懐かしみつつ呟いたのち、真顔で問うた。 無言で応えない藤乃の答えを肯定と取った松本は、苦悶しつつ答える。 「こんなご時世で無ければ、堂々と諸手を叩いて祝福してやりたかった……父親は、沖田か?」 「………はい」 長い沈黙ののち、藤乃は一言肯定を呟いた。 慶応四年(1868年)一月三日 大阪に居た佐幕藩と薩摩藩の諍いが起こり、鳥羽伏見戦の火蓋が切って落とされた。 世に言う、戊辰戦争の始まりである。 「皆、本当に済まない。こんな大事な時に隊を離れ、大阪に向かわなければならないとは……」 「僕も申し訳無いです……本当なら、皆さんと共に戦前に行きたかったのですが……」 松本の勧めで肩の傷の養生と病気の治療の為、近藤と沖田は共に大阪に向かう事になった。 「何言ってるんだ、二人共。養生の為に隊を離れんだろうが、これは任務だと思って心してくれ」 肩を落として言う近藤と沖田に、土方は声をかけた。 「トシ、新撰組はお前に託す。万一、俺に何かあれば、お前が新撰組を率いてくれ」 「近藤さん、ここの大将はアンタだ。必ず帰って来い、それまで俺が責任を持って預かっている」 いつに無く弱気になっている近藤に、土方は元気付ける様に約束を交わした。 「藤乃さん」 沖田は一言も喋らず、唯つっ立っていた藤乃に声を掛ける。名を呼ばれ、藤乃は眼を向けた。 「行って来ます」 余計な言葉を省き、シンプルな言葉で終わらせた沖田に藤乃も微笑んで手を振った。 そうしている内に出発の時刻が来てしまい、近藤と沖田は馬に跨り、大阪へ向かう。 戦場へ行く事を止められるのを恐れ、藤乃は沖田に身体の異変を告げずに別れた。 「何人たりとも奉行所内に入れるな!ここで食い止めるんだ、行けぇー!!」 轟音と爆音が響く中、砂塵舞う伏見奉行所の前で薩長軍を迎え撃つ土方の命令が響き渡る。 「負傷者は本陣へ!相手に背を向けるな!止まると、狙い撃ちの標的になるぞ!!」 藤乃も刀を振り上げ、斬り込みつつ怒鳴る。が、大半の隊士は新式銃を前に次々と倒れて行った。 「土方さんらしからぬ采配だ……」 「近藤先生が居ない分、肩に余計な力が入っているのかもしれない」 藤乃の隣で刀を振っていた斎藤が呟き、負け戦の惨状を見詰めながら藤乃も返した。 「くっ、新式銃一本でここまで戦に差が出るとは……!」 時が経つ程戦況が不利になるに連れ、土方は歯噛みしながら呟いた。 「もう無理だぜ、土方さん。こっちの銃は殆どが旧式だ、性能から違いすぎる!」 ちょうどその時、最前線に居た永倉が負傷した隊士を引き連れ戦前から戻ってきた。 「情けねぇ、相手より人数が多いのにこのザマかよ……総員退却!!」 これ以上は無理だと悟った土方は、苦渋の決断の末退却命令を出す。 退却命令を受け、新撰組は共に戦っていた会津藩とちりぢりになりつつも南へ敗走して行った。 剣の腕を頼りに動乱の世を生き抜いて来た新撰組であったが、もう剣槍の出る幕は終わった のだと、新撰組は自らの身を持って痛感したのである。 この戦いが今まで勝組みであった新撰組が、負け戦を味わった最初の戦であった。 一月六日、淀の千両松まで退却した幕府軍は再びこの地でも苦戦を強いられる。 その上新式銃の威力を前に、戦意を喪失して戦場を脱走をする者が後を絶たず、薩長軍が 天皇より錦の御旗を賜り、新政府軍と名乗る官軍となったと言う噂が広まり御旗に弓引く朝敵 となる事を恐れた幕府側の格藩からの寝返りが相次ぐ様になり戦況は益々不利となって行った。 「土方さん……たった今、源さんに続いて山崎さんが息を引き取りました」 激戦区となった千両松の草原で、腹に銃弾を受けた山崎を診ていた藤乃が土方に報告する。 これで新撰組隊士からの戦死者は、江戸から居た井上源三郎(源さん)を含め十数名にも上った。 「………そうか」 重たい沈黙後、銃声が響く空を見上げ土方が呟いた。 一月七日、戦意を喪失した将軍慶喜は新政府軍に恭順の意を示す為、松平容保を伴い深夜早々 船で大阪城を出発し江戸へと戻って行ってしまったのである。 また、大阪城下で戦っていた新撰組も近藤と沖田と合流し、海路で江戸へと敗走して行った。 「藤乃さん……僕に何か隠している事ありません?」 江戸へ向かう船室で、脈を計っていた藤乃に沖田が問うた。 「如何して?この頃、夢見も悪く無いからちゃんと寝ているよ?けど、看護が忙しいかな」 「そうですか」 苦笑して答える藤乃に、松本から話を聞いていた沖田は相槌を打つだけに留めて置いた。 同年ニ月、江戸城下に駐屯中近藤の下に一通の手紙が届けられた。 「トシ…勝様が、俺と会って下さるそうだ……」 手紙を読んでいた近藤が歓喜に声を震わせ、土方に呟いた。 「良かったな、近藤さん。上手くすりゃあ、幕臣勝の指示が仰げるかもしんねぇ」 敗戦続きであった新撰組に齎された一つの吉報であった。 「だが、一つ条件があるそうだ」 「条件?」 顔を曇らせて言う近藤に土方は問うた。 「江戸城へは、フジと二人だけで来いと言って来ている」 「藤乃と二人だけで……?きな臭ぇな、何を考えてやがるんだ奴ぁ」 条件の内容に疑問を抱いた土方は手を顎に添え、考え込んだ。 「トシ、俺はこの条件を飲もうと思う。勝様も俺達と同じ江戸のご出身だ、勝様を信じるよ」 考え込む土方に近藤はやんわりと諭し、微笑んだ。 「……ふっ、近藤さん、アンタやっぱ大物だ。解ったよ、アンタがそう決めたんなら俺は何も  言わねぇさ。相手が条件を突き付けている以上、俺は同席出来ねぇ。だが、帰りを待つ事なら  出来る。必ず帰って来い、二人揃ってな」 近藤の微笑に翳りが見て取れ、土方は勇気付ける様に背中を押してやった。 「本日のお目通り、感謝の極みに御座います。私は新撰組局――……」 「ああ良いよ、知ってっから。俺は中枢職を押し付けられている唯の爺だ、気楽に話そうや」 面会当日、応接室に現れた勝は丁寧に頭を下げる近藤の言葉を途中で区切らせた。 「ふむ、要望通り二人で来た様だな。結構」 勝は座布団の上に座ると、近藤と藤乃の顔を満足そうに眺めて言った。 「は、はぁ……」 初めての人種を前に、近藤は面食らって答える。 「所でよぉ、近藤。お前さん達新撰組は、戦場に女を連れ出さねぇ程人手不足なのかい?」 先程のやる気無さから一変し、勝は鋭い視線で近藤を射抜いた。 「お待ち下さい勝様、私は――……!」 勝の問いに近藤の後ろに控えていた藤乃が声を上げたが、それを近藤が手で制した。 「隊の人数を考えれば、人手不足とは言えません。ですが今、我等新撰組に居る医師はこの娘  しか居りません。勝様が仰りたい事は重々承知して居ります。ですが私は、十二分の信頼を  この娘に寄せて居ります。一人でも多くの命を救い、生き残り続けてくれると信じてます故」 近藤も鋭い視線を勝に返し、はっきりと本音をぶつけ応えた。 「ほう、そこまで言うなら見せて貰おうか。その十二分の信頼とやらを……甲陽鎮撫隊だ」 口元を吊り上げ聞き慣れない隊名を言う勝に、近藤は眉根を寄せた。 「甲府を鎮める部隊≠ナ甲陽鎮撫隊。本日から新撰組は甲陽鎮撫隊と名を改め、甲府へ行って 新政府軍と一戦交えて貰う、甲府鎮圧が成功した暁には甲府はお前にやろう。武器弾薬、軍資 金と言った必要物資は全てこちらが用意させてもらおう、好きなだけ言って来い。その代わ り、  お前さん達には…そうだなぁ、その娘藤乃の除隊は自由と言う事にしてくれ」 「止めて下さい、私は除隊なんてしませんよ」 勝の言葉に業を煮やした藤乃が、怒気を孕んだ声で静かに言い放った。 「まぁ、そう怒るな。如何だ近藤?大事な妹分を生かすだけで甲府一国はお前の物だ。お前さん 方には得しかねぇ良い条件だと思うが?」 「……確かに、この娘は私の大事な妹分です。ですが、その妹を物の如く天秤に掛ける様な言い 方は辞めて頂きたい!援助は結構です、甲府鎮圧は我等の力で必ず成功させて見せます。戦支 度がありますので、失礼!」 軍事の中枢を担う人物にタンカを切った近藤は、口を噤んでいた藤乃を連れ部屋を後にした。 その際勝は、近藤の表情に翳りが有った事を見逃さない。 「ふぅ、やっと新撰組を江戸から追い出す事が出来たか。だがよぉ近藤、関東荒野を抑えたって  もう如何にもならない事などお前ならとっくに気付いてんだろ。それでも、敢えて捨て駒に  なって逝くか……おい誰か!至急、戦物資を新撰組に送り付けろ!(ここで終るか、近藤よ…)」 忠義にしか生きられない無骨者を殺す惜しさに気付いた勝であった。 その日の昼過ぎ、突然送り付けられて来た補給物資の仕分けで手間取り出発は明日に延びる事になったため、藤乃は近くの茶店で茶を啜っていた。 「(私が刀を捨てれば、近藤先生は甲府城主に……)」 茶の水面に映る自分の顔を眺めながら、藤乃は心中で呟いた。 「隣良いか?若侍」 「あ、はいどう……か、勝さ――……むぐっ?」 突然何者かに声をかけられ、藤乃は振り向いたが相手が勝だと解った途端、本人に口を塞がれた。 「騒ぐな。俺は今、お忍びで団子を食いに来た唯の爺だ」 声を上げそうだった藤乃の口を手で塞ぎつつ、当の勝は声を少し落として事情を説明する。 「やっとゆっくり話せるな、京では邪魔されてばかりだった。京で上手くやって来られたか?」 店員に出された茶を啜りながら祖父を感じさせる口調で勝が口を開いた。 「全然と言って良い程、上手くやれませんでした。思ったより大変なのですね、人を斬るのは…」 毎日ストレスを溜め込んでいた事を思い出し、行き交う人々を眺めつつ藤乃は頭を横に振った。 「武士とは、最期まで戦い、そして散る。これが刀に敬意を払う者の務めだ。だが、お前に怪我 が無い様で良かった。お前に何かあったら、俺はお前の父に顔向け出来ん所だったよ……」 老人特有の皺だらけの手で藤乃の頭を撫でながら勝は眼を細めた。 「あの…父とは如何言った知り合いなんですか?」 親子程の歳の差がある父と勝を考え、接点が解らない藤乃は首を傾げた。 「俺はアイツから、一生かかっても返しきれない借りを貰った。昔、欧米に海外視察しに行って いた時だ。一人の米人が誤射した銃弾が、俺の右肺を貫通しちまってなぁ〜……」 茶を啜りながら、勝は昔の記憶の糸を手繰り寄せる様にぽつりぽつりと話し始めた。 「手術は成功したが、それ以上に嬉しかったのは意識を取り戻した俺に日本語で、しかも懐かし い江戸の言葉で話しかけてくれた事だった。心が救われた瞬間だったよ、毎日外国語ばかり聞 いて、祖国を感じる物が何一つ無く空疎を感じていたからな。正直驚いちまった、欧米医学を 学びに船に同乗した唯の医学生としか知らなかった奴に、この勝が心ごと命を救われたんだ」 「偉大な方でした…父親としても、医学の先人としても。それに比べ、私は何も出来ていない」 藤乃は唇を噛み締め、俯いた。 「何言ってやがる、お前の偉業はこの江戸城まで響いていた。城内の名医を師に持つ、典型的な エリートじゃねぇか。名が通るとは、そう言う意味だぜ」 「違うんです、私が目指した医学は偉業を成す事では無いんです。父のように心ごと命を救う、 生きた医学をしたかったんです。現に私は、病人一人救えやしない……」 「誰か、大切な人なのか?」 肩を震わせて言う藤乃の言葉に勝も真剣な眼差しを向けた。 「私の許婚、末期の結核患者なんです……」 噛み締める様に、ゆっくりとした口調で答えた。 「……この国は神国と云われているが、俺はそうは思わねぇ。だってそうだろ?神様が居る  なら、何故お前にばかりこんな惨い仕打ちをなさる?両親の次は旦那かよ…冗談じゃねぇ」 少しの沈黙後、孫の様に感じた娘の境遇に対し、勝は奥歯を噛み締めながら眉間に皺を寄せた。 「ですが、多少得た物もあります。ここに居るんです、あの人との子が……」 藤乃はそう言うと、優しく少し大きくなった下腹部を擦り、眼を細めた。 「そうか、でかした!日取りはいつだ?」 懐妊と言うめでたい話題に、勝は先程の険しい顔から一変して満面の笑みで問うた。 「順調に行けば、七月です。ですから、故郷に着いたら潮時だと思って捨てます。刀を……」 甲府に向かうには故郷を通る為、微かに残る未練をひた隠しにする様に藤乃は笑った。 「すまねぇな、幕府の英雄を追い出す形になっちまって。だがな、江戸城を無血開城させる為に、  新撰組に居て貰っては困るんだ。解ってくれ」 今まで通り、再び新撰組隊士として戦地に赴く藤乃に勝は頭を下げた。 「いいえ、右眼が見えない私は既に皆の足手まといです。潮時が見極められただけで、幸運です」 網膜が死んで、白い瞳の右眼を隠していた前髪を払い除けると藤乃は屯所の方へ走って行った。