いざ、会津へ!
同年八月、黒革の眼帯に西洋軍服になった藤乃が松本の所を訪れた。 「てめぇ、もういっぺん言ってみろ」 松本は薬を作っていた手を止め、怒りを抑えた声で平伏する藤乃に眼を向けた。 「今現在、新撰組が戦場としている場所を教えて下さい」 多彩な情報網を持つ松本に藤乃は怯む事無く、平伏したまま再度同じ言葉を言った。 「いい加減にしろ!何故、そんなに死に急ぐ?」 松本は弟子を死地に向かわせたく無い一心で言葉を強めて言った。 「私は新撰組隊士です、それが私の誇りでもあります。ですが、時代は日々厳しい物となって  います。幕府は崩れ、我等は逆賊扱い。それでも幕府を信じ、仲間を信じ、勝ち目が無いと  解っていながら今も戦い続けているんです!私は京で人を斬りました、私が生きていては  宗次郎も逆賊の子として捕らわれます。私は、生きていてはいけないんです!」 言い終るか否か、藤乃が顔を少し上げた途端左頬から乾いた音がし、痛み出した。 「この痛みは、今ここに居ねぇ父親からの痛みと思えバカ娘。刀がない奴が何しに行くんだ、  それに宗次郎は如何する?お前と同じ孤独を味合わせるのか?」 頬を叩いた右手を下ろしつつ松本が問う。 「時代は変わります、武士の時代は終わりました。刀より文学です、宗次郎は師匠の下で医者  にしたいと思います」 熱を持った頬を押えながら藤乃は答えた。 「断る、俺は弟子を取らないと昔お前に言った筈だ。お前は、父親との関係で仕方無く取った。  今度はお前が弟子を取る番だ。気に食わねぇが、勝がお前に眼を掛けている以上お前は死なん」 「ですが、怨みは買っています。以前、療養中に総司は大阪で暗殺未遂に遭っています。私も  いつ狙われるか解らない以上、子供の傍にいられないんです!」 「はぁ〜…もう帰れ、そろそろ宗次郎が起きるだろ」 何を言っても食い下がってくる藤乃に、松本は溜め息を吐くと追い出す。 戸口の前で一旦止まると、藤乃は振り返る。 「……総司が許してくれました。私は今後、誇りを賭けて戦い続けます。失礼」 今戸神社を後にし、藤乃はその足で多摩川の河原に下りる。 「刀が無い、か……」 川の水に浸した手を温かく熱を持った頬に当てて呟いた。 「刀ならここにあります」 突然後ろからハッキリとした声が聞え、振り向くとおミツが菊一文字を抱えて立っていた。 「お、お義姉様……?如何したんですか」 藤乃は驚きつつ、水で濡れた手を下ろした。 「ごめんなさい、話が聞えてしまったの……総司が許したのなら、今日からこれが貴女の刀です」 ミツは懐から手拭いを出し、藤乃の頬に付いた水を拭うと刀を押し付けた。 「ですが…これは…」 「えぇ、これは総司の刀。けれど、今の貴女になら渡せる、心からそう思うの。今、新撰組は  会津に向かっているって聞いたわ。総司も共に、連れて行ってあげて欲しいの」 刀に視線を落とし、受け取らないでいる藤乃にミツは言った。 「総司も…共に……」 そう呟くと藤乃は意を決し刀を受け取る、久しぶりに得る刀の感触に懐かしさが込上げた。 「刀は武士の魂です、貴女も沖田家の嫁なら諦めてはなりません。大丈夫。髪を切り、女である 自分と決別した今の貴女は負けません。お行きなさい、貴女が守る誇りの為に」 夫と同じ微笑みを称える義姉に背中を押され、藤乃の決心が固まった。 「はい」 迷いの無い瞳をミツに向け、返事をした藤乃は戦仕度を整える為に家へと駆け出す。 その一連の様子を、少し離れた所から静かに松本が見ていた。 その日の夜中に準備を済ませ、頭に白い鉢巻を巻いた藤乃は寝ている息子の顔を覗き込む。 宗次郎はいつもと違う雰囲気に眼を開け、母親の変った姿にぐずり始めた。 「ごめんね宗次…いえ、総護。泣いてはダメよ、武門の男でしょ?」 宗次郎を抱き上げると元服名で言い直し、優しく諭す。 「総護、母は今からお前の為に父と共に歳三伯父さんの所へ行かなければなりません。お前は  生きなさい、武士の戦は私の代で終るから。私はお前に医者になって欲しい、出来れば私の  代わりに留学する程の人物に育って欲しい。その願いを込め、総ての厄災から人々を護る意  を込めた名を私達両親から君にあげよう……白夜、お前ももう私に着いて来てはいけないよ」 いつの間にか、隣で座った姿勢で見上げていた白夜の頭を撫でつつ藤乃は言った。 「そんな訴える眼で見ないで、白夜にはやって貰いたい事があったから残って貰うだけよ」 落ち着いたのか、再び寝息を立て始めた宗次郎を布団に入れながら藤乃は白夜に答えた。 「この子が…総護が、一人前になるまで私の代わりに見守っていて欲しいの。その後は山に  帰って好きに生きなさい」 主人からの最後の命令を承諾するかの如く白夜は宗次郎の枕元に移動し、胸を張って一回鳴く。 その見送りに満足すると藤乃は腰紐に巻いたサラシに菊一文字を差し、銃を肩に背負うと戸に 手を掛けたが、立ち止まり振り向く。 「さようなら」 柔らかく微笑むと、全ての意味が篭った言葉を残して帰らない家の戸を開け敷居を跨ぐ。 すると、玄関先で小さく嘶く一頭の馬が眼に入った。 「馬?何故、こんな所に……」 疑問に思い馬に近付いてみると、背に上質の鞍が置かれている事から、偶然現れた馬では無い 事が容易に見て取れた。藤乃は驚きつつも、血色の良い栗毛の毛並みを優しく撫でる。 「俺に挨拶も無しかよ、本当に失礼な奴だなお前は」 呆れた声で藤乃に言うと、家の角から松本が姿を現した。 「師匠……ではこの馬は、もしや師匠が?」 「どうせ、こんなことだろうと思って知り合いから一番速い馬を拝借して来たんだ」 藤乃の問いに、松本はキセルに火を入れつつ答えた。 一筋の煙が立ち上る。 「でも、反対だった師匠が如何して……?」 「あ〜あ、一体何処でどう教育を間違えたんだろうなぁ〜?師の言う事は聞かねぇし、医師の  くせに自分の命は粗末にする……破門だ、てめぇなんか師でも弟子でもねぇ」 藤乃に背を向け呆れて言っていた松本は、次第に声のトーンを落としついには破門を言い渡した。 突然の破門宣言に思考回路が追いつかず、藤乃はその場に立ち尽くす。 「…破…門……」 現実に意識が戻った藤乃は、消え入りそうな声で確認する様に復唱した。 その様子を松本は背中で感じ取る。 「……有難う御座います、これで私は師…いえ、松本先生に気兼ねなく戦場に行けます」 一礼すると、藤乃は元師からの選別に貰った馬に跨った。 「あぁ、有りがたいな。これで俺は、晴れてお前の我侭から開放された。お前など、何処へ  なりとも行ってしまえ……今後こんな事が無い様に、今度の弟子はきちんと指導しなけりゃな」 子供の面倒は見ると言う意味を言葉の裏に隠し、松本は小声で言う。 「(師匠……)宜しくお願い致します。失礼!」 意外な申し出に、藤乃は馬上のから深々と頭を下げる。 そして馬に鞭を入れ、北へと去って行った。 「……気高く散れ、バカ愛弟子」 遠退いて行く蹄の音を聞きつつ、背中で見送った松本の頬に一筋の滴が流れ落ちた。 藤乃も流れる涙を必死で堪え、北への路を駆け抜ける。 郊外へと続く一本道に差し掛かった頃、薄暗く見え難い路の端々に急遽明かりが灯った。 ミツから話を聞き付けた人々が見送りに提灯を持って道を照らす。 「(お義姉様……)いざ、会津へ!」 全員に感謝の意を込め、義姉にも聞える様に高らかに宣言すると必死で堪えていた涙が溢れ出る。 複数の小さな嗚咽と、人の温かさが身に沁みて感じられる八月の夜の出来事であった。 一方新撰組は、閏四月の白河口戦で負傷した土方の代わりに斎藤が指揮をとる。 同年の八月に回復した土方は、会津の入り口とも言うべき母成峠で再び指揮をとった。 大敗をきすも恩在る会津藩の為、徹底抗戦をするべく母成峠で三日目の夜を迎える。 「土方さん、少々負傷者の数が多すぎて、今居る軍医だけでは間に合わないそうです」 隣で周辺の地図を広げ、唸る土方に斎藤は内部情報を報告した。 「ちっ、使えねぇ軍医共だ。アイツは一人で、今以上の人数を相手にしてたってのによ……」 「…珍しいですね、土方さんが居ない人物の話をするとは……」 「とうとう俺も焼きが回ったか……軍事会議を始める、各責任者を――……」 「土方副長!」 近くに控えていた市村に指示を出していた土方の声を遮る様、一人の隊士が駆け込んで来た。 「何事だ?」 会議が始められない事に苛立ちつつ、土方はその隊士に問いかける。 「只今、南の門からの報告で、短髪に眼帯をした者が副長に会わせろと。如何しましょう?」 「短髪に片眼……?知らねぇな、名は?」 風体を聞いた土方は記憶を巡らし、今までに会った人物と照らし合わせるが見つからない。 「それが、その……沖田と名乗っているそうです」 新撰組で天才剣士の名を知らぬ者は居らず、同時に病持ちも知っていた隊士が言葉を濁した。 「「沖田だと!?」」 名前に反応を示した土方と斎藤が同時に声を上げた。 「斎藤、眼帯している奴、総司だと思うか?」 「正直、否めません。違う人物か、或はここに来る途中、眼を怪我した本物か……」 「どちらにせよ、確かめる必要があるな。行くぞ」 万が一の為に二本の大刀を装備し、土方は斎藤と市村を引き連れ門へと移動した。 同刻、土方を待つ間藤乃は職業柄か多数の怪我人を見つけ現場に居た軍医と共に治療にあたる。 「そこ!鎮痛剤を無駄使いしない!麻酔は手術以外では使うな、すぐ底を着くぞ!」 補充の利かない限界物資を無駄に使う現状に呆れつつ、藤乃は怪我の手当てを大急処置程度で 終らせ、広く浅く出来るだけ大勢の患者を診察して廻った。 そんな時、屈んで手当てをしていた藤乃に一人の人影が覆い被さる。 「俺が土方だ」 警戒心から唸り声にも似た低い声で、土方は見慣れぬ洋装姿の相手に言い放った。 久しぶりに聞く声で兄の生死を確認した藤乃は口元を緩め、ゆっくりと立ち上がって振り向く。 「怪我人が多すぎですよ、一体どんな采配をして来たんですか?」 自分の正体が解り驚いて眼を見開く三人を前に、藤乃は土方に挨拶代わりの軽く口を叩いた。 「お前…その格好…いや、それより。こんな所で何してやがる、総司は如何した」 暫らく見ないうちにガラリと印象が変った藤乃に驚いた土方であったが、すぐさま冷静になった。 「死にましたよ、四ヶ月も前に…だから総司の魂と共に、ここに来ました」 もう吹っ切れたのか、爽やかに言うと菊一文字を見せる。 洋装の為か細長く見える体つきに大きな刀がアンバランスに見えたが、気負う事無く堂々と 立っている藤乃の姿に三人は似合っていないとも思えなかった。 「……総司も死んで、近藤さんも死んだ。江戸へ帰れ!お前がここに居る理由はもう無いんだ!」 これ以上親しい者を失いたくない一心で声を張り上げる、土方の怒鳴り声で周囲に居た者達は 全員口を噤み、辺りには松明の火を焚く音しか聞えなくなった。 「……ここには私の兄が居ます。同僚も居ますし、仕事もあります。新撰組としての誇りが  あります。私も別にこの期に及んで、幕府の為とは言いません」 ゆっくりとした口調で藤乃は答える、再び沈黙が辺りを支配した。 「では、すぐに江戸に帰れ。幕府に殉ずる気がないなら、自分の子供の為に生きろ」 「私が死ぬのは、昔から背中を見て育ってきた兄の為に殉ずる時です。何も幕府では無く、  純粋に新撰組の為に殉じたいのは土方さんだけでは無いんですよ。私も同じ、総司も同じ  だから私は本当の意思でここへ来た。断らせませんよ、重傷者を見殺すなら話は別ですが」 諦める様に諭す土方に藤乃は鋭く射る様な眼差しを向ける、心の片隅で治療を任せたかった 土方は不意を突かれた様に口を噤む。 が、土方は何を思ったのか脇差として持って来た月姫を抜くと、切先を藤乃の眉間に突き立てた。 それでも視線を変えない藤乃を京でも見た事がつい昨日の様に鮮明に蘇り、斎藤は口元を緩める。 芹沢の大和屋焼き討ち事件を知らない市村は、心配そうに見守る他無かった。 「……成る程な、道理で芹沢が笑う訳だ」 そう呟くと収めた刀を鞘ごとサラシから引き抜き、市村に突き出す。 「処分して置け、手段は問わない……」 月姫を市村に預けると、土方は藤乃を一瞥すると踵を返して歩き去って行った。 「……新撰組の為に殉じたい、これ以上の口説き文句は無いな。新撰組隊士の証だ、持って居ろ」 今まで黙って居た斎藤が柔らかく口を開くと、誠の文字が入った腕章を手渡す。 「小まっ…いえ、沖田先生。月姫です」 土方から渡された刀を持ち主に差し出す、市村も幾多の戦場を潜り抜けた武士の顔になっていた。 「私の我侭に付き合せて済まなかった。今一度、私と共に戦ってくれ」 心から謝罪をし、藤乃は月姫を抜くと白銀の肌を月夜に曝した。合意する様に月姫の白刃が煌く。 脇差に月姫を加え、二本の大刀を腰に差した藤乃は威風堂々と本陣へと歩き出した。 風が陣羽織の裾を翻す、威厳に満ちた背は何も語らない。