池田屋事変
その日の夕刻、仔狐の手術も無事に終り、藤乃は自室でお茶を飲みつつカルテを作成していた。 隣には何とか一命を取り留めた仔狐が、規則正しい寝息を立てている。 しかし数分後に聞き慣れた足音により、筆を置くと襖に眼を向けた。 「邪魔するぞ」 この言葉と同時に襖が開き、土方が入って来た。 「相変わらずせっかちですね、一声掛けてから開けて下さいよ。兄さん」 藤乃は頬を膨らませ、兄代わりである土方に不平不満を言った。 「うっせぇな、今は緊急事態……おい、ここは何時から動物も診る様になったんだ」 土方は藤乃からの抗議を聞き流し、不意に視界に入った仔狐を見ると呆れた声を出した。 「目の前で死にかけていた所、保護しました。食べないで下さいよ?」 「よし、お前が居ない間に食ってやろう」 心配して言う藤乃に、土方は口元を吊り上げると真顔で返した。 「何故!?今、食べるなって言ったばかりでしょ〜」 「バカ、冗談だ」 本気でショックを受ける藤乃に、土方は眉間を押えた。 「……何の用ですか?」 本気でショックを受けた自分が恥かしくなり、照れ隠しで咳払いをした。 「山崎君からの調査書だ」 一通り藤乃をイジメ終えると、土方は一通の報告書を差し出した。   『今月二十二日前後、烈風の夜を選び御所の風上より火を放つ。    その混乱に乗じ吉田稔麿以下ニ十数名、参内する中川宮と    会津容保公を討ち、帝の輿を誘導し長州へ御動座頂く也』 「吉田……稔麿……奴が、現れたんですね?」 報告書を読み終えた藤乃の声は、込上げて来る憎しみで微かに震えていた。 「だが、古高が捕縛された事で、奴らも今夜辺り何処かで会合を開く」 古高(古高俊太郎)は桝屋喜右衛門の本名であり、歴史的に有名な討幕志士であった。 「奴は、私が。いえ、私にしか殺せない……」 「言って置くが、俺はお前を無駄に死なせる為に剣を取らせた訳じゃねぇからな」 それだけ言うと、土方は立ち上がり部屋を出て行こうとする。 が、不意に立ち止まり、藤乃に背を向けたまま続けた。 「集合は祇園石段下の町会所だ。お前の力、見せてやれ」 「はい!」    暮六つ(元治元年の暮六つは現在の二十時頃)祇園町会所 「遅い!遅すぎるぜ!なぁ、局長もう行こうぜ?俺達十番隊は気が短けぇんだ」 不精髭と口に咥えた葉が特徴的な原田左之助が憤慨しつつ、近藤に猛抗議した。 原田は隊内随一の槍の使い手であり、種田宝蔵院流槍術の免許皆伝者である。 昼頃に会津藩へ援軍要請を出していた筈が、半時以上も掛かりやっと返って来た会津から の返事は準備の為、暫し待たれよ≠ナあった。 それに業を煮やした原田が、痺れを切らして音を上げたのである。 「奉行所等にも要請を出して下さって居るんだ、時間が掛るのは仕方あるまい」 静かに床几(しょうぎ)に座っている近藤にも、次第に焦りの色が見え始めた。 「原田、落ち着け。今、山崎君に場所の特定を急がせている」 隣に居る土方も痺れを切らしているのか、言葉に棘が含まれていた。 「待ちましょう、左之さん。場所が解れば、斬り込めば良い……」 土方の隣で医療道具の確認をしていた藤乃が呟いた。 「申し上げます、副長」 ちょうどそこへ、一人の町人風の男が土方の下へ現れる。 彼は新撰組諸士調役兼監察方、名を山崎丞と言った。 「京に在る茶屋・宿屋等を調べた結果、二ヶ所に絞り込む事が出来ました」 「おお!でかした、流石は監察方諸君!!」 やっと来た朗報に、近藤は大いに喜んだ。 「で、場所は?」 土方も表情を少し和らげつつ、山崎に問うた。 「……真に、申し上げ難いのですが……」 余程言い難いのか、山崎は言葉を濁した。 「構わん、続けろ」 その様子に眉を顰めつつ、土方は先を続けさせた。 「はっ。池田屋≠ニ四国屋≠ナす、この内どちらかが囮かと思われます」 「……ご苦労だった、それだけ調べられれば上出来だ。近藤さん、隊を二分しよう」 そう土方は山崎を労うと、近藤の方に向き直った。 「う〜む、池田屋と四国屋か。近所とは言え、川を挟んでいるが仕方無いか……」 もう少し援軍を待っていたかった近藤であったが、勤皇藩士達を取り逃がす訳にもいかない 為渋々承諾する。 「新撰組、出動する!!」 近藤は床几から立ち上がると、皆に聞える様声を張り上げ、号令をかけた。   六つ半 鴨川を挟んで西に在る池田屋には近藤・沖田以下精鋭部隊九名を近藤隊とし、東に在る四国屋 へは土方・藤乃以下二十三名が土方隊として動き出して行った。(諸説在り) 移動中、藤乃が何気なく空を見上げると、紅い満月が嘲る様に見下していた。 「(必ず、殺してやる……)待っていろ、吉田稔麿……」 あの日と同じ月を見て、藤乃は一人呟いた。 二時間後、池田屋に到着した近藤隊は対応に出て来た番頭に宿帳の拝見を頼んだ。 が、新撰組だと解った途端番頭は慌て出し、二階へ続く階段下から――…… 「お二階の皆様!御用改めに御座いますッ!!」 それを聞いた近藤は、番頭を押し退けると急いで二階へと駆け上がる。 一方室内では、番頭の声を聞き何事かとざわつく中、一人動じず酒を呷る男が居た。 歳は土方と同じ程で、黒い服が良く似合う。 一人の同志が、新撰組が来たと報告した。 「ククッ、ようやくここまで来たか……待ち草臥れたぜ、小松の小娘」 盃に入った酒を一気に飲み干すと、男は淡く揺らめく燭台の火を見詰めた。 「御用改めでござる!手向かい致す者は、容赦無く斬り捨てる!!」 近藤のこの声が響くのは、このすぐ後の事である。 同刻、土方隊も四国屋の二階に駆け上がり、勢い良く襖を開け放ったが――…… 「居ない!?」 室内には人一人居なく、もぬけの殻であった。 「ちっ!池田屋だったか……全員、池田屋へ向かえ!!」 「土方さん!」 次の指示を出している土方に、藤乃は自分を先に行かせてくれと眼で訴えた。 「駄目だ、勝手に隊を離れる事は許さん」 「お願いです、土方さん!でなければ、アイツに逃げられてしまう」 目的の相手の逃亡を恐れた藤乃は必死で土方に請うが、土方は頑として受け入れ様とはしない。 「勝手に離れるなと言った筈だ。副長として命じる、局長にすぐ土方隊も到着すると伝えろ」 「……は、はい!」 思わぬ形で許可が下り、藤乃は驚きつつ返事を返した。 藤乃は他の隊士達でごった返す入り口へは向かわず、真っ先に窓際に走る。 「お、おい!?」 原田は驚き制止させるが、それを藤乃は振り切ると、二階であるにも関らず飛び降りた。 池田屋への僅かな道のりを全力で駆け抜ける。 その間も、あの月は鬱陶しく藤乃に纏わり着いた。 『興醒めだな、所詮は無力なガキか』 思い出すのは、七歳の記憶。 家が燃える朱、倒れている両親から流れ出る血液、見詰める瞳孔が開ききった瞳。 そして――……自分を見下す冷たい眼と紅い月。 『血潮を被って、ここまで来い』 唯々憎いのは、両親を斬った奴と何も出来なかった無力な自分。 今思えば、両親が殺されなければならなかった理由すら知らなかった。 一方池田屋では、血で血を洗う死闘が繰り広げられていた。 その中で、大量の返り血を浴びた一人の男が抜刀した刀を手に歩いている。 頭から被った返り血は、最初こそ男の黒い髪に映えていたが、時間が経ち黒く変色していた。 「何故、出て来ない?まだ、殺し足りないと言うのか……」 この男こそが、藤乃の両親を殺した吉田稔麿本人である。 「アンタの仕業かよ、大量の仲間が斬られた原因は」 吉田の呟きに、猫眼が印象的な青年が答えた。 この青年の名は藤堂平助、新撰組八番隊を率いている隊長である。 「雑魚に用は無い。早く、あの娘を出せ」 「藤乃ならここには居ないぜ、別働隊で今は四国屋さ」 藤堂は雑魚呼ばわりされた腹いせに、残念と言う意味を込めて笑った。 その瞬間、両者は同時に踏み込み、刀が激しく火花を散らす。 「如何?俺も少しはやるでしょ」 力押しで間合いを縮めた藤堂が、吉田におどけてみせる。 だが、吉田は微動だにせず無言で藤堂を見据えた。 「平助、退け!相手が悪すぎる、そいつは――……!」 しかし突然、偶然に藤堂の姿を見かけたタレ眼の男が止めに入った。 タレ眼の男の名は永倉新八と言い、新撰組二番隊隊長である。 「大丈夫だって、ぱっつぁん。ここで俺がこいつを止めれば、あいつが怪我しないで済む  でしょ?」 忠告する永倉に、視線を永倉に変えた藤堂は余裕で聞き流す。 が、視線を変えた藤堂の隙を突いて、吉田は藤堂の額に一太刀入れた。 「え……?」 「へ、平助ぇ――〜!」 一瞬、自分の身に起きた事が理解出来ず、額から夥しい血を流しながら倒れた。 手傷を負わされた弟分に、永倉は急いで駆け寄る。 「東廊下で待つ、そうあの小娘に伝えろ」 それだけ言うと吉田は去って行った。 数分後、池田屋に到着した藤乃は自分に斬りかかって来る討幕志士達を片っ端から斬り捨てる。 奥へ続く渡り廊下を突き進んで行くと、途中で永倉と遭遇した。 「藤乃ちゃん、来てくれたんだな」 「永倉さん、大丈夫ですか?手の肉が削げてますよ」 「俺の事は良い、平助が額を斬られた」 藤乃は永倉の手の具合を診ながら言うが、永倉は藤乃の手を払うと藤堂の状況を説明した。 「平助!?しっかりして、気絶しては駄目よ」 壁に座り、意識が朦朧としている藤堂に藤乃は声を掛けつつ応急処置を施した。 「ごめん…しくじった……」 「喋るな、平助」 無理に笑う藤堂に、永倉が声をかけた。 「これで血は止まると思います。永倉さん、近藤先生は何処か解ります?」 「伝言かい?俺がやっとくよ。奴から、東廊下で待つだとさ」 互いが殺す相手を探して居る事を知っていた永倉は、藤乃に吉田の伝言を伝えた。 「……近藤先生に、すぐ土方隊も到着しますとお伝え下さい」 永倉から伝言を受けた藤乃は愛刀を一撫でし、驚く程落ち着いた声で言う。 今度は東廊下へと駆け出して行った。 「出て来い!吉田稔麿!!」 目的地に着いた藤乃は、異様な殺気を放つ暗闇を睨み据える。 すると、暗闇に廊下の軋む音が響き渡り、吉田稔麿が姿を現した。 「やっと来たか、待ちわびたぞ」 抜刀した刀を構えると、吉田は口元を吊り上げて言った。 「今まで、貴様を殺す為に血の滲む努力をして来た」 藤乃も冷たく言い放つと、愛刀の月姫を構えた。 「ほう、ではどれ程の物か見せて貰おう。余り、俺を失望させるなよ」 ――命を賭けて、掛って来い―― 周りの空気が、そう言っている様だった。 両者は同時に踏み込み、刀がぶつかり合う金属音が響く。 「何故父を殺し、母を斬った?」 刀を交差させ、間合いを変えずに藤乃が問い出した。 「知りたいか?ならば、勝ってみせるんだな!」 吉田は笑って言うと、刀を横に薙ぎ払った。 その瞬間藤乃も間合いを取り、吉田の刀は首元を掠れただけに留まる。 しかし吉田は容赦無く踏み込み、藤乃に斬り掛った。 「うっ、くっ!(太刀が重い……)」 藤乃は咄嗟に受け流したが、吉田の太刀筋は重く、藤乃の構えを崩す。 その拍子にバランスを崩し、藤乃の脇腹に吉田の蹴りが入った。 「ぐっ!うっ……」 藤乃の身体は弧を描く様に吹き飛ぶと、隣の庭の大木にぶつかって止まった。 「弱い……弱過ぎる。これでは、あの方の計画が台無しだ……」 「(…っ、あの方……?)」 軽い脳震盪を起こした藤乃の眼の前に立つと、吉田はそう呆れて呟き、藤乃の左肩を貫いた。 「っああああ!!」 突如襲った激痛に悲鳴を上げ、藤乃は射貫かれた肩を押える。 「所詮、お前にこの大役は相応しくなかったのだ。やはり、あの場で殺して置くべきだ  った……」 「如何言う意味?大役って何?(予想以上に強いな……どうしたものか…?)」 藤乃は痛みを堪えつつ、吉田に問うた。 「冥土の土産に教えてやる、お前は新日本を築く上での重要な鍵。故に、強くなくてはな  らない」 「それと、両親の死に何の関係があると言うの?」 「解らないか?身近な者が殺されない限り、復讐と言う糧は得られない」 「……まさか……!?」 「そうだ、両親が死んだのは。お前の所為だ」 「私の……せ、い……」 淡々と言い放つ吉田の言葉に絶望し、頭の中が真っ白になった。 「お前の所為だ、お前が弱いばかりに両親は死んだ。きっと、あの世で怨んでいるだろう。  だが、安心しろ。弱いままのお前に価値は無い、俺がここで終わらせてやる」 紅い月を背に刀を振り上げ、見下す姿が若き日の吉田と被る。 吉田の刀が容赦無く振り下ろされ、藤乃はそれを他人事の様に見ていた。 「……私が、弱いから死んだ……ならその怨み、死ぬまで背負って生き続けてやる…!」 瞳孔が開いた藤乃が微かに呟くと、降り下ろされた刀を反射的に受け止めた。 「何!?」 吉田はこのまま簡単に終わると思っており、驚きの声を上げる。 睨み上げる藤乃の瞳に光は無く、意識もはっきりしていない様であった。 「(これは…恐怖?この俺が、こんな小娘に?)ちっ、ふざけるな!さっさと死ね!!」 その眼を見た吉田は、無意識に冷や汗をかいていたが、認めたく無い一心で刀を右斜め上段 に構え直し、力の限りに振り下ろす。 が、居る筈であろう人物は既に居らず、吉田の刀は空を斬った。 「居ない!?何処だ、何処へ行った!」 己の左右を必死で探すが、見つからない。 しかし背後から突然、吉田の左胸より血まみれの刀の刃先がゆっくりと出て来た。 「価値が無いのは…お前の方だ…」 瞬間的に吉田の背後に回り込んでいた藤乃が静かに呟く。 「な、に……」 心臓を一突きされ、口から大量の血を吐きつつ吉田は後ろを見やる。 「お前は捨て駒にされたんだ、私に糧を得させる為に……」 一言そう言うと、藤乃は一気に刀を引き抜いた。 血が噴水の如く噴出し、藤乃の長く黒い髪から滴り落ちる。 相手が刀を取り落とし、崩れ落ちる様を藤乃は口元を吊り上げ、笑って見ていた。 「クスッ、ご愁傷様〜♪」 唯の肉塊と化した者を見下ろし、月に照らされた藤乃は、酷く妖しくほくそ笑んでいた。 その様子を、血が飛び散った二階の一室から見ていた人物が居た。 「お見事です、藤乃さん」 そう眼下の人物に呟いた沖田は、何時でも藤乃の助けに行ける様、抜いて置いた愛刀の 菊一文字を鞘へと収める。 そろそろ池田屋騒動も大詰めを迎え、沖田は何処か苦戦している所が無いかと死体が散乱 したこの場を後にしようと歩き出すが、突然大きく咽始めた。 咳をすればする程酷く咽返り、口内に血液特有の鉄分の味が広がる。 「!?……これは、血……?」 口元を押えていた掌を見てみると、少量だが自分の血が着いていた。 「ごほっ、ごほっ!」 再び咳がぶり返し、酷い眩暈に襲われ方膝を着いた。 「くっ!(早く立たなきゃ、グズグズしていたら月明かりで狙われる)」 月明かりが入る窓側に居た沖田は狙い撃ちを危惧し、刀を支えに立ち上がろうとするが、 身体に力が入ら無い。それ所か、身体が異常な高熱を発していた。 そんな折、出入り口がある方向が騒がしくなる。 「土方さん…達だ。良かっ…た……」 待ちに待った本隊である土方隊の到着に、沖田は胸を撫で下ろす。 が、遂には意識が遠のき、その場で倒れた。 こうして、新撰組の名を全国に轟かせる事となった池田屋事変にようやく幕が下りた。