追憶・日野編
ここで少しの間、小松藤乃の昔話をいたしましょう。 女の身でありながら、武士として生きる彼女の日々やいかならん―――……… 天保十五年(1844年)藤の花が咲き乱れる晩春 江戸市ヶ谷にて小松良介の長女として産まれる。 この小松家は代々江戸城医師(奥医)を務めて来た名門医家である為、藤乃も幼い時から 医学書を児童代わりに読んで育っていった。 弘化四年(1847年)藤乃四歳(現代の三歳半)の初夏 まだ幼児である藤乃の名を世間に知らしめる事が起きた。 「父上、書庫にあった人体生態学について私の考えをまとめてみました。添削をお願いします」 そう言うと藤乃は自室で論文作成中の父に数十枚の紙束を差し出し、それを事も無気に言う 我が子に良介は度肝を抜かれる。それもその筈、書庫にある書物は全て幼児が読むには難しい 物ばかりか、幾ら名門家と言っても四歳児が論文を書くなど不可能であるのだから。 「どれ?見せてみなさい……!?(凄い、しっかり書けている。これを、子供が書いたのか……)  お藤、論文は誰にも知られない様暗号化するんだ。父上の論文、一緒に書いてみるかい?」 娘の才能に気付いた良介は今自分が研究している事にも通じる為、書き方の指導も兼ね書かせ てみる事にした。これにより仕上がった論文は藤乃の処女作となるが、同時に良介の遺作になる。 そして、同時期に剣術にも興味を持ち始め、良介が師範代を勤める天然理心流試衛館を訪れた。 「やぁ、周斎。少し遅れてしまった、すまない」 良介はにこやかに片手を上げ、道場主の近藤周斎に笑いかけた。 「おぉ良介、気にする事は無い。おや?今日は娘も一緒か?」 周斎も親友に笑いながら手を上げて答えたが、珍しい客に眼を向けた。 「お初にお目にかかります、周斎先生!藤乃と申します、どうか私を弟子にして下さい!」 余程剣術を学びたいのか、藤乃は周斎に会って早々と弟子入り志願した。 「困ったものだよ、女の子なのに珍しく武士に憧れているんだ。それ程好きなら、武家に 嫁げば?≠チて言うと……」 良介は溜め息を吐きつつ、興味深く弟子達の練習風景を眺める娘を見やった。 「嫌です!それでは駄目なのです、自分の身で学ぶ事が大切なのです!!」 すると藤乃は目線を変えずに、頑として拒んだ。 「これだよ……一体、この頑固さは誰に似たのやら……」 娘との水掛け論に、もうお手上げ状態の良介であった。 「アハハハハ!お八重さんにそっくりじゃないか。だが、何故師範代のお前が教えない?」 「見てるに決まっているだろ、早朝から叩き起こされてね。この子、飲み込みが早いんだ……」 ふと、疑問に思った周斎を良介はジト眼で見ながら言い返してやった。 良く見ると良介の目にはくっきりとクマがあり、それに気付いた周斎は親友が哀れに思えてな らない。そんな大人の事情を知らない娘は、早く竹刀を握りたいのか落ち着きが無かった。 それに対し、良介は早く安眠をくれ≠ニばかりに期待した眼を周斎に向けている。 「(そんな眼で俺を見るなよ…)あ〜…解った。他ならないお前の頼みだ、引き受けるよ。 勝太!」 根負けした周斎がそう言うと、一人の門人を呼んだ。 「恩に着るよ、周斎。では、後はよろしく♪」 一言そう残すと、良介はさっさと家に帰って行ってしまった。 「帰るのか!?…って、聞いちゃいねぇ。どうせ寝に帰ると思うが、本当に自分勝手な奴だ」 苦笑を含んだ溜め息を吐きつつ、周斎は呟いた。 「お呼びでしょうか、養父上」 優しい眼をした十代程の少年が、良介と入れ替わりに藤乃の前に現れた。 彼、勝太は本名を島崎勝太といい剣の腕を買われ、近藤家の養子になったのちの近藤勇である。 「勝太、この子は良介のお嬢さんで名は藤乃だ。今から、この子と入門試合をしなさい」 「解りました、養父上。俺は勝太、よろしく」 「(うわぁ〜、雰囲気が父上にそっくり)小松藤乃です、宜しくお願いします」 笑って自己紹介をする勝太に、藤乃も笑って会釈をした。 試合いは一本勝負であり、周斎が審判を務める事となった。 しかし、開始合図があっても両者は一歩も動かず相手の隙を窺い合う。 その様子を、道場内が固唾を飲んで見守っていた。 「(ほう、流石は良介の娘。武道を嗜む者として、最低限の忍耐はある様だな)」 立ち合いの最中に周斎が藤乃を観察していると、不意に藤乃が限界まで腰を屈め竹刀を低位置 に構え始める。その途端、両者は同時に踏み込み勝太は面を、藤乃は胴を目掛けて竹刀を振 るった。 「そこまで!」 藤乃を門人にしても大丈夫だと確信した周斎は、両者がぶつかる寸前の所で終了させた。 「小松藤乃合格!本日より、試衛館の入門を許可する。だがお藤、いくら親友の娘でも門人と なった以上他の門人同様に扱う。その事を、しっかり肝に銘じて置きなさい」 「はい!有難う御座います!!」 この日を境に藤乃は医者だけでなく、本格的に剣士としての道を歩み始める事になった。 そしてこの一年後、藤乃の人生を大きく変える人物に出会う。 「フジは凄いな、飲み込みが早いから少し教えただけですぐ実力が上がる」 「私などまだまだですよ。練習について行けるのは、若先生が丁寧にご指導して下さる御陰です」 手合いの相手をしていた勝太が藤乃に笑いながらこう言うと、藤乃も笑って返す。 藤乃は勝太の人柄や剣術に惚れ懐き、勝太も藤乃と余り歳が離れていない為大層可愛がって いた。 若先生≠ニ言うのは勿論勝太も事を指しており、周斎の妻・栄に次の場主だと紹介され、 尊敬の意味を込めてそう呼んでいる。 「よう!勝ちゃん久しぶり〜!!」 突然、誰かの声がして勝太と藤乃が振り向くと粋に紅い結い紐で髪を結った一人の薬売りが 戸口に寄り掛かって立っていた。 「トシ!?トシじゃないか、久しぶりだな!」 来客の相手が解った勝太は嬉々として戸口へと向かう、藤乃も興味本位に着いて行った。 「薬の売れ行きは如何だ?」 「喧嘩売ってるのか、アンタ。ん?勝ちゃん、こいつは?」 毎回、同じ質問をして来る勝太に歳三は軽く目くじらを立てたが、第三者に気付き勝太に訊 いた。 「あぁ、この子は師範代の娘さんで名は藤乃。俺はフジ≠チて呼んでいるんだ」 勝太の紹介が終わるや否や、歳三は顔が良く見える様藤乃の顎を掴み自分の方に向けさせた。 「へぇ〜、師範代のねぇ〜。顔は悪くねぇな、オイお前、俺の嫁に来い」 「「………はぁ!?」」 いきなりの爆弾発言に驚いた勝太と藤乃は、同時に間抜けな声を出した。 が、歳三は構わず続ける。 「剣術をしている女なんて誰も娶りゃしねぇが、俺は気にしねぇ。だから早ぇ内に――……」 「天誅!!」 歳三が言い終わらない内にキレた藤乃が手を払い、脛に一発力の限り蹴り飛ばし去って行った。 「いっ!?てぇ――〜〜……!!」 油断していた歳三は思いっきり蹴られた脚を抱え、その場にうめくと蹲った。 「トシ、その初対面で口説く癖直したら如何だ……?」 相変わらず手が早い親友に、勝太が歳三に呆れて呟いた。 「ってぇ〜な〜、あの女、いつかぜってぇ泣かす……!」 「だから、止めろって……(あ、フジにトシを紹介するのを忘れていた……)」 藤乃への復讐に燃える歳三の隣で、互いの紹介が途中で終わっていた事に気付いた勝太であった。 ちょうどその頃、藤乃は休息も兼ねて借りていた本を返す為、日野の土方家に向かっていた。 「いきなり男女差別かよ、マジムカつくあの男。のぶ姉ぇ〜、借りていた本返しに来たよ〜」 「おや?その声は藤乃だね?」 元気良く土方家の敷居を跨いだ藤乃を、一番初めに出迎えたのは縁側に座っていたこの家の 長兄為次郎(音次郎)であった。 だがこの長兄、生まれ付き盲目の為先程の様に気配や声で誰なのかを判断していた。 「はい、藤乃です。お元気そうで良かったです、今度俳句のお題探しに行きませんか?」 藤乃は微笑んでいる為次郎の傍まで駆け寄り笑いかける。 為次郎は目が見えない分、鋭い感受性を持ち合わせよく俳句や短歌を嗜んでいる。 その影響を受け、藤乃も為次郎と共に句を詠んだ。 「あぁ、是非とも一緒に行かせてもらうよ。お〜い、のぶ!藤乃が来ているぞ!」 一通り藤乃との話が終わり、為次郎は家の中に向け声をかける。すると、一人の女性が現れた。 「いらっしゃい、お藤。別にそんな本、急いで返さなくても良かったのよ?」 先程まで洗い物をしていたのか、手をエプロンで拭きつつこの家の次女のぶが微笑んだ。 「だって、早くのぶ姉に会いたかったんだもん。ひょっとして今、忙しかった?」 「んもう!本当に可愛いわね。ウチの弟とは大違いだわ」 頭を項垂れ、うろたえる藤乃をのぶは実の姉の様に優しく抱き締めた。 「こらのぶ、歳三が聞いたら悲しむぞ」 「弟は可愛くないものよ、兄上」 朗らかに叱咤する為次郎に、のぶは笑って言い返す。 「歳三?」 聞き慣れない名前に藤乃は首を傾げる、その問いにのぶが答えた。 「この家の、超可愛くない弟。今日帰るって言っていたから、後で紹介してあげるわ」 「うん!(優しい人だと良いなぁ〜♪)」 藤乃は期待に胸を膨らますが、その相手は先程勝太が紹介し損ねた失礼な男だとは知る由も無 い。 嘉永三年(1850年)藤乃七歳の真夏 「藤乃、お前は何時まで竹刀を振り回しているつもりですか?」 早朝いつも通り、剣道道具一式を持って家を出ようとした藤乃に母・お八重は呆れて言った。 「…………」 しかし藤乃は、母のいつものお小言に草鞋の紐を結びつつ聞き流す。 「お前は女子なのですよ、いずれは父上と同じ様に医学に秀でた方を婿にしなければならぬ身。  それなのにお前ときたら、父上が優しい事を良い事に勝手ばかり……良き縁談を得て、良き 妻、良き母となるのが女子の勤め。もう少し小松家の長女としての自覚が――……」 「嫌だ!如何して、母上は毎日私の邪魔をするのですか!?母上なんか……大っ嫌いだ!!!」 そう怒鳴ると、藤乃は走って家を出て行った。 半ば喧嘩別れの如く過ごした朝が、家族で過ごす最後の朝になろうとは知る由も無い。 その後、稽古で遅くなった事も手伝い、藤乃は裏口から帰ろうとわざわざ遠回りをして帰った。 「ただいま――……!!?」 誰も居ないと思っていた裏庭に、刀を持った男に斬られた母が倒れる瞬間に偶然居合わせた 藤乃が驚き、その拍子に持っていた剣道道具を取り落とした。 「……ほう、竹刀か」 火の海と化していた居間を背に、音を聞いた男が振り向き様に呟いた。 「…………」 余りの出来事に意識が着いて行けず、藤乃は黙ったまま立ち竦んだ。 「クク、恐ろしくて声も出ないか」 男はそう喉で笑うと、一歩づつ藤乃に近づく。 「……ち、父上……母上……」 男の言う通り、藤乃がやっとの思いで言った言葉も恐怖の余り擦れていた。 「(父?)ほう、お前が娘の……竹刀相手だと興が削がれるが、まぁ良い」 「誰?何故、父上と母上を……?」 「長州藩士、吉田稔麿。忘れるな、お前の父母を斬った者の名だ」 それだけ言うと、吉田は持っていた刀でいきなり藤乃を斬り付けた。 「っ!?くっ!」 それに気付いた藤乃も咄嗟に竹刀を拾い、受け止めたが、真剣相手に竹刀が耐えられる筈も無 く、たちまち竹刀は折れ、藤乃の頬を掠めた。 「死ね!」 見下して言う吉田に恐怖を感じた藤乃は、死体の近くにさっきまで良介が使っていた刀を見つけ 隙を突き、刀の所まで一気に走ると刀の柄を握った。 「うっ……お、重い……」 竹刀とは違い、初めて握る本物の刀の重さに耐えられず、ろくに構えも出来ないでいた。 その様子に吉田は鼻で笑うと、みね≠ニ呼ばれる刀の反りの部分で藤乃を薙ぎ払う。 「解せんな、何故あのお方はこんなガキに日本の未来を託される」 地面に叩き付けられた藤乃を見やり、吉田は呟く。 「アァァァァァ――……!!」 藤乃は地に伏せたまま折れた腕を押え、初めて味わう激痛に悶え苦しんだ。 「興醒めだな、所詮は無力なガキか」 吉田は藤乃の首を片手で軽々と持ち上げると、少しづつ動脈に力を加えた。 「くっ、う……は、放せ……」 呼吸が出来ず意識が飛ぶ中、藤乃は抵抗しつつ、相手を睨みながら言った。 「弱い。弱過ぎる。だがあの方の命だ、殺しはしない。醜く生き延び、孤独を知るが良い」 「あ……かはっ……」 吉田は口元を吊り上げて言うが、藤乃は酸欠で意識が殆どない状態であった。 是以上は限界だと判断した吉田はゆっくり力を緩め、藤乃を下へと落とす。 「血潮を被って、ここまで来い」 そう言うと吉田は去って行く、藤乃は焦点が定まらない瞳から涙を流しつつ眼を閉じる。 その後、周斎が火事を聞き付け、駆け付けた時には全てが終わった後であった。 二日後、葬儀が執り行われた。 藤乃は両親の位牌を持ち、墓場までの道のりを完治していないままの体で歩いて行く。 道中、一時的の同情を耳打ちする人々の声と前を歩く和尚の経が耳に着いて離れない。 視線を道端に落とすと、紅い彼岸花が両親の魂を早くよこせと言う様に咲いていた。 結局、話でしか知らない宗家の人間は前日の通夜おろか、葬式にすら顔を出さない。 巻き添えを恐れた宗家に、絶縁された事を墓石に刻まれた家紋を眺め、今更ながらに思い知った。 『興醒めだな、所詮は無力なガキか』 『血潮を被って、ここまで来い』 あの男に言われた事が頭から離れず、悔し涙が頬を伝った。 「お藤、お前は親友の娘だ、俺の娘とも思っている。だから、俺の家に来ないか?」 藤乃の隣で手を合わせていた周斎が、墓石を刻まれた名を眺めつつ言った。 「周斎先生……有難う御座います」 藤乃は周斎の方を向くと頭を下げた。 一週間後折れた腕も完治し、今まで通り元気に医学と剣術の腕を磨く。 が、何時からか、毎晩人知れず部屋を空ける様になった。 「ああ?居なくなった?」 自宅の戸板に寄り掛かり、寝ぼけ眼の歳三が言った。 「あぁ、藤乃の部屋から物音がしてな、見に行ったら……お前の所に来てないか?」 提灯を片手に、勝太が落ち着き無く頷いた。 「居ねぇよ、勘弁してくれよ勝っちゃん。今、何時だと思ってんだよ〜……」 真夜中に叩き起こされた歳三は、傍迷惑な親友を睨んだ。 「悪い、遅い時間だとは解っていたんだ。けど、ほっとけ無くてな。元気が無いんだ、ずっと」 「あ?元気じゃねぇかよ。毎日、ヘラヘラ笑ってんぜ?」 急に肩を落として言う勝太に、少し驚いた歳三は真顔で答えた。 「表面上に決まっているだろ。お前の次兄と末兄が死んだ時、お前、笑って居られたか?」 痛い所を突かれた歳三は、そのまま口を噤んだ。 「行きなさい、歳三」 不意に、上着を羽織った為次郎が居間の奥から出て来た。 「あ、兄貴……」 寝ている筈の長兄に、歳三は驚きの声を上げた。 「事情は解らないが、声で勝太が焦っている事は明白だろ?親友なら、何故力になってやらな い」 普段、温厚な為次郎の眉間に少し皺が出来ているのを見て、歳三はバツが悪そうな顔をした。 「それに、近頃辻斬りが出ると言う噂を耳にしたから。気を付けて行きなさい」 そう言うと為次郎は、木刀を二本勝太と歳三に渡した。 「辻斬り!?真剣相手に木刀でやれってか?刀くれ、刀!」 近頃の状勢を聞いた歳三が、不平不満を洩らした。 「馬鹿者、刀に両親を奪われた子供の前で刀を使うのか?お前は」 「………え?兄貴、今何て?」 最もな事を言われ、一度は口を噤んだ歳三だったが、引っ掛かる言葉を耳にし問い掛けた。 「木刀も役には立つ。勝太、この近辺に居ないなら竹林を探す良い。前に、好きだと言ってい た」 「はい、有難う御座います!」 そう言うと勝太は、急いで走り出した。 「あ、おい!?……っあ〜、待てよ勝っちゃん!!」 歳三は急に走り出した勝太と、普段の表情に戻った為次郎とを交互に見ると観念して走り出 した。 数分後、為次郎に言われた通りに二人は竹林へとやって来る。 「ったあぁぁぁ!」 一合の気合と共に、竹刀を打ち付ける音が辺りに木霊した。 周りに生えた数多くの竹を相手に見立て、藤乃は素早く身を翻しつつ素早く打ち込む。 道場では決して見られない光景に、勝太と歳三は息を飲んだ。 「……あんな事をしていたのか、あの子は」 藤乃の鬼気迫った顔を眺めつつ、勝太は呟いた。 「ってあぁぁぁ――……っ、痛っ……」 藤乃は突きを一つ入れたが、疲労により集中力が途切れ、手からの痛みに竹刀を取り落とす。 落ちた竹刀の柄には血がベットリと付着し、両手の掌を見るとマメが潰れ、血が流れていた。 「!?フジ……!」 その様子を見た勝太は藤乃に辞めさせ様と近付こうとするが、それを歳三が止めた。 「止めろ勝っちゃん、中途半端な気持ちで辞めさせても何の解決にもならねぇ。俺が行く」 そう言って勝太を留まらせると、歳三が藤乃に近付いた。 「(痛い、痛い、痛い……)このままじゃ駄目……このままじゃ、アイツを殺せない――……」 藤乃は両手の痛みに蹲ると、乱れた呼吸を整えつつ呟く。 「その程度で人が斬れると思ってるのか」 「――……っ!?な、何故、貴方がここに……?」 突如背後から声を掛けられ振り向くと、歳三が両腕を組み、仁王立ちで立っていた。 「俺が何時何処に居ようと、俺の勝手だろ」 「……邪魔しないで下さい」 「邪魔はしねぇさ、弱ぇお前の邪魔したって、何の得にもなりゃしねぇし」 「……煩い…アンタに何が解る、何故アンタにまで弱いだなんて言われなきゃならないの!」 頭に血を上らせた藤乃は殺気立ち、再度竹刀を握り直すと歳三に立ち向かって行った。 「ほら、弱ぇ。てめぇの攻撃なんざ、片手で受けられるぜ」 口元を吊り上げつつ言うと、歳三は笑いながら藤乃の攻撃を片手で全て防いでいた。 「くっ、てぇあ!」 正面からでは勝ち目が無いと解り、竹打ちの修行で養った俊敏さを生かし歳三の横に出る。 歳三の横を取った藤乃は、歳三の脇を目掛けて竹刀を振った。 が、歳三は瞬間的に藤乃の竹刀を木刀で薙ぎ払い、藤乃の喉元に木刀を突き付けた。 「―――……っ……」 喉元の木刀に視線を這わせ、藤乃は肩で息をする。 少し離れた所から、竹刀が地面に落ちる音を聞いた。 「技量だけで人が斬れると思うな、殺気を纏って初めて殺人剣になる。それを忘れるな」 そう言うと歳三は、手馴れた手つきで木刀を帯に差し入れた。 恐怖で動かない藤乃に向かって歳三は続ける。 「……あの人は、如何し様も無ぇバラガキの俺に道を示してくれた恩人だった。暇潰しで  始めた剣が続くのも、全てあの人の御陰だ。だから、その人が死んだ時、俺は無性に腹が  立った……仇討ちしたけりゃ、女である事を捨てろ。それが出来なきゃ、仇討ち何か辞めち  まえ」 そう言うと歳三は、静かに聞いていた藤乃を睨む様に見据えた。 因みにバラガキとは、悪ガキと言う意味の地方弁である。 「私に……人の殺し方を教えてくれますか?」 呼吸も元に戻り、今まで静かに聞いていた藤乃が静かに問う。 声色は静かであったが、その瞳には強い決意を孕んだ焔が宿っていた。 「良いぜ、俺がお前に全てを教えてやる。如何だ勝っちゃん、辞めさせたぜ?」 さっきとは打って変わって微かに顔の筋肉を緩めると、勝太に向かって声を掛けた。 「フジ……」 先程の遣り取りを全て見ていた勝太は、複雑な顔をして藤乃の前に現れた。 「わ…か先生……」 驚きと、人を殺す事を知られた恥かしさで藤乃は俯いた。 「良いよ、それがお前が選んだ道なら俺は何も言わない。けれど、無理はするな」 そう言った勝太の声は優しく、藤乃の頭を撫でる手もゆっくりと優しかった。 「修行中に手を潰してりゃ世話ねぇぜ、今日から俺達が守ってやるのによ」 歳三は甲斐々しく世話焼き口調で言い、自分の着物の裾を歯で切り裂くと藤乃の手に巻き付けた。 「お前も、たまには良い事言うな」 何だかんだ言って世話を焼く歳三に、勝太は笑いながら言った。 「アンタはいつも一言多いけどな」 視線を変えず、黙々と手当てをしながら歳三は呟いた。 「ぷっ……くくくくっ――……」 二人の遣り取りがツボに入ったのか、藤乃は笑いを必死で堪えながら肩を微かに震わせていた。 「ほら見ろ、アンタの所為で笑われちまったじゃねぇか」 「以前のフジに戻ったんだ、喜ぶべきじゃないか」 耳まで真っ赤にしてそっぽを向く歳三に、勝太は歳三の肩を叩きつつ笑った。 が、突如人が近付く足音が聞え、辻斬りの話を聞いていた勝太と歳三は藤乃を庇う様にして立ち 音のした方へ木刀を構える。三人に緊張が走った。 「やあ、やはり此処に居たね」 「怪我は無いか、三人共」 朗らかな声と少し慌てた声が奥から聞え、相手が解った三人は大きな溜め息と共に緊張を解いた。 「あ…兄貴……」 「驚かさないでくださいよ、養父上……」 突如現れた為次郎と周斎に、歳三と勝太はジト眼で睨んだ。 「馬鹿者、驚いたのはこっちだ。帰りが遅いと思って出たら、為次郎が此処を教えてくれたんだ」 提灯を片手に持ち、周斎は勝太に呆れて言った。 「周斎先生!頼みが有ります!!」 「ど、如何したトシ……?」 急に改まって膝を地に付けた歳三に、周斎は面食らって答えた。 「コイツを…藤乃を俺に預けてくれ!俺自身の手で、コイツの剣の才能を伸ばしてやりてぇん だ」 歳三の真剣な言葉に、周斎も真顔で暫らく考え込んだ。 「駄目だ、そもそもお前の剣は我流じゃねぇか。喧嘩剣法を使う奴に、大事な門弟はやれねぇ」 「萬の神に誓って、才能は潰さねぇ!このままじゃ、納得出来ねぇんだ。俺も、コイツも……!」 そう言って頭を垂れる歳三に、気圧されした周斎は唸った。が、次で状況は一変する。 「お願いします、周斎先生」 そう言って藤乃も歳三の隣で膝を付き、頭を垂れた。 「……解った、お前がそこまで言うなら好きにしろ。だが、偶には帰って来いよ」 根負けした周斎は寂しさを含んだ顔で微笑んだ。娘を手放す様な心境なのであろう。 こうして藤乃の剣才は、第二の師である歳三の下で培われたのであった。 「なぁ、兄貴。辻斬りの件なんだけどよ」 「あぁ、アレかい?嘘だよ、嘘。そう言わなきゃ、お前行かなかっただろ」 「……(兄貴って、腹黒い……)」 後日、結局遭わなかった辻斬りについての真意を問うて来た歳三に、為次郎は相変わらず朗らかに笑って否定する。 本来の兄を今更ながらに知った歳三であった。 嘉永五年(1852年)秋 夕日に照らされた赤とんぼを眺めつつ、藤乃は多摩川の河原に腰を下ろしていた。 が、緩やかに流れる川の音に掻き消されてしまう程小さな泣き声を耳にし、辺りを見渡す。 そこには、自分と同い年位の少年が膝を抱えて泣いていた。 「ねぇ、何故泣いているの?」 「!!?す、すみません、御免なさい……」 急に声を掛けられた事に驚いた少年は、どもりながら答えた。 「何で謝るの?」 「ご、御免なさい……」 「………名前は?君、迷子?この辺りじゃ、見かけないけど」 話が先に進まないと思った藤乃は、呆れつつ定番な質問をしてみた。 「お、沖田宗次郎です。日野の郊外に住んでいましたが……試衛館に下働きに出されました」 余程家が恋しいのか、宗次郎と名乗った少年は再度瞳を濡らし、俯いた。 「(口減らしか……多いのよね〜そう言う子……)歳は?見た所、私と変わらない様だけど」 当時飢饉が起こると、貧しい家では食料の残量を少しでも増やそうと度々行なわれていた。 事情を知った藤乃は少し罪悪感を感じ、話題を変える。 「九つになりました」 「あ、私も九歳。同じだね、宜しく」 「よ、宜しくお願いします……」 微笑みながら手を差し出して来た藤乃に、宗次郎も笑って手を差し出す。 微かに赤くなった宗次郎の顔を、夕日の朱色が隠した。 「所でさ、何で宗次郎は泣いていた訳?」 最初の疑問を投げ掛けて来た藤乃に、警戒を解いた宗次郎は少しずつ経緯を話し始める。 その内容は、気の強い女将の栄にキツイ物言いで日々仕事を言い付けられている事であった。 「う〜ん、変ねぇ……女将さんは優しい人なんだけどな〜」 最後まで黙って聞いていた藤乃が、不意に眉間に皺を寄せて呟いた。 「けれど、周斎先生や若先生が庇ってくれます」 「女将さんは理不尽に怒鳴らない人だよ、何か事情があるのかもしれない。謝りに帰ったら?」 「許してくれませんよ……」 「私も行ってあげるから、男でしょ?勇気を出して行きましょう?」 渋る宗次郎に藤乃はそう元気付けると、宗次郎の腕を引っ張り駆け出す。 辿り着くと、藤乃は家の戸を勢い良く開け放った。 「女将さーん!こんにちは〜!!」 久々に近藤家に来た藤乃は元気良く挨拶した。 「フジ!?久しぶりだな〜元気だったか?」 玄関先の声を聞き付け、やって来たのは勝太であった。 「はい、若先生もお変わり無く」 「そうか。宗次郎を連れて来てくれたんだな、悪かったな。宗次郎、心配していたんだぞ」 「御免なさい……」 宗次郎は勝太に頭をクシャクシャに撫でられつつ、俯いて謝罪した。 「しかし、寂しくなるな〜とうとう明日か、松本先生の所に行くのは」 宗次郎から手を離し、勝太はしみじみと藤乃に言った。 「はい、今までお世話になりました。あ、女将さん居ますか?宗次郎が謝りたいと」 「そうか、偉いぞ宗次郎。今、台所だと思うが――……養母上!フジと宗次郎が来てますよ」 栄の所在を思い出すと、勝太は奥へと歩き出す。勝太と入れ替わりに、不機嫌な顔の栄が現れた。 「何だい?私は忙しいんだ。お藤、今夕飯の支度しているから食べて行きなさいな」 宗次郎にキツイ言い方で言うと、打って変わって藤乃には優しく言った。 「頂きます。が、先に宗次郎が女将さんに話があるそうです」 あからさまな差別に藤乃は苦笑いをしつつ、宗次郎の脇を小突く。 背中を押された宗次郎は泣け無しの勇気を振り絞り、しどろもどろに喋り始めた。 「あ、の…仕事を途中で放って逃げ出してしまい、申し訳ありませんでした」 「フン!仕事もロクに長続きしない上に、女に守って貰うなんて情け無いねぇ。お前は、  それでも武士の子かい!?お前の母上が聞いたら、さぞ嘆くだろうね!」 頭を下げて言った宗次郎に、栄は目くじらを立てて怒鳴った。 「おい栄、子供相手にギャンギャン喚く事ぁねぇだろう」 栄の怒鳴り声を聞き付けた周斎が、居間から出て来て栄を宥めた。 「宗次郎って、武士の子なの?」 「はい、恥かしながら。下級武士ですので、生家は江戸の麻布にある下屋敷です」 大人二人が口論している間、宗次郎は藤乃からの問いにはっきりとした口調で答える。 宗次郎の歳に似合無い礼儀正しい口調は、武家の躾から来る物だと初めて知った藤乃であった。 「麻布…白河藩士?(確か女将さんの幼馴染が、そこの下級武士に嫁いだって言ってたな……)」 所在地で藩名に気付いた藤乃は、ふと以前に栄から聞いていた話を思い出した。 白河藩は現在の福島県白河市に当るが、此処ではその藩の江戸藩邸の事である。 「お前さんは、何だってあんな弱虫の味方をするんだいッ!おナオが不憫と思わないのかい!?」 「今は、そんな話をしてんじゃねぇだろ!」 感情的になって言う栄に、周斎も目くじらを立てて言い返す。 止まらなくなった夫婦喧嘩に、居間から出て来た勝太が割って入った。 「落ち着いて下さい養父上、養母上も。養母上、そろそろ台所へ向かわないと煮物を焦しますよ」 「ああ!?いけない、そうだった!」 勝太に指摘され、思い出した栄は慌てて台所へと走り出した。 「あの、周斎先生。何故、女将さんは僕の母上の名前を知っていたのでしょうか?」 「あ?あぁ、あれか……宗次郎は知らなかったと思うが、ナオは栄と同じで武家の出だ」 不安そうな顔で問い掛けてくる宗次郎に、周斎は優しく答えた。 「昔、養母上と宗次郎の母上は大変仲の良い幼馴染と聞いた。だから、養母上は泣き虫の  宗次郎を同じ武家の人間として、由々しき事だと心配しているんだよ」 宗次郎を抱き上げつつ、勝太も言った。 「良かったね、宗次郎。女将さんが怒るのは、君の為だったんだよ!」 「僕の……為……」 勝太に抱き上げられ、目線が遥か上になった宗次郎に藤乃は笑って言う。 栄の優しさを知って、宗次郎も自然と顔が綻んだ。 以後、武家の人間として強くなろうと決心した宗次郎は泣かなくなり、栄からの風当たりが弱 まった事は言うまでも無い。 宗次郎が試衛館で竹刀を持つ様になったのは、藤乃が江戸の中心に旅立った後の事であった。