追憶・上京編
文久三年(1863年)春 将軍警護の目的で上洛浪士隊が組織され近藤・土方以下試衛館の面々は当然参加する。 これがのちの新撰組の母体となる浪士組であったが、隊内でのいざこざを避ける為、藤乃 には男(藤之助)として来る様土方から命が下った。 二月九日、中山道 本庄宿前にて事件が起こる。 宿割りの手違いにより芹沢鴨(のちの新撰組筆頭局長)一派の部屋が洩れ、それに悋気した 芹沢が道で近隣の商家で焚き火を行なったのだ。 「申し訳御座いません、芹沢殿」 宿割り担当であった近藤が芹沢に頭を下げる、少し後方では野次馬に混じって近藤一派も 成り行きを見守っていた。 「顔を上げろ、近藤氏。貴殿に落ち度はねぇ、部屋が足りないんだ仕方ねぇだろ。だがな、 春と言ってもまだ二月だ。焚き火ぐれぇさせてくれよ?」 芹沢は悪びれる様子も無く、持っていた鉄扇で軽く近藤の肩を叩く。 芹沢の行動に、藤乃を含む何人かは頭に来て動くがそれを近くの者が止めた。 「部屋は他の担当が探しています故、火を消して頂きたい」 近藤は毅然とした瞳を芹沢に向け、ハッキリと述べた。 「オイオイ、我等が芹沢先生に無礼を働いて置きながら偉そうに説教するのか?」 そう言って前に出て来た眼帯の男、新見錦(のちの新撰組一人目の局長)が近藤の胸倉を 掴もうと手を伸ばした。が、途端に何者かに腕を捕まれ勢いよく近藤から引き離される。 「近藤先生に、汚い手で触るな!!」 そう新見の腕を掴み何者かが吼える、同時に腕を捻り上げられた新見がうめいた。 その白い細腕で大の男の腕を捻り上げたのは、艶やかな黒い髪を束ねた小柄な剣士藤乃である。急変した状況に見物人はざわつき、軽はずみな行動を取った妹分に試衛館一門は全員頭を抱え た。 「やめろ、新見。今のはおめぇが悪い」 「だがよぉ、芹沢さん」 こっそり空いた手で抜刀しようとした新見に芹沢が制したが、それを新見が渋った。 「俺の言う事が聞けねぇのか、新見!」 この一喝が効いたのか、新見は静かに刀の柄から手を放す。 「おめぇさんも、その手を放せ」 今度は藤乃の方に顔を向け、静かに且つはっきりと言い放った。 「お前の指図は受けない」 芹沢の言葉を拒否した藤乃に、芹沢の部下達が刀を構えるが、芹沢が手を上げて制した。 「ほう、俺に楯突くか。なかなか面白い奴を連れているな、近藤氏?」 芹沢は貴殿が命じろ≠ニでも言う様な眼つきで近藤を見やる。 「フジ、下がれ」 それを聞いた藤乃は乱暴に手を放す、それを見届けた芹沢が藤乃に話し掛けた。 「大の男相手に動じねぇ忠誠心の強さ、気に入った。おめぇ、名は?」 「試衛館が門人、小松藤之助」 「男か?女かと思ったぜ。随分と小せぇ男も居たもんだ。酒は飲めるのか?」 芹沢の鋭い指摘に、本人を含めた近藤一派に緊張が走った。 「いいえ、飲んだ事は」 藤乃は怪しまれぬ様、務めて冷静に対処する。飲んだ事は無いと言う藤乃に、芹沢は何を 思ったのか近くに居た平山に陶器製の酒瓶を藤乃に投げて寄越させた。 「これは?」 「見ての通り、酒瓶だ。ちょうど部屋も整った事だ、おめぇの心意気。見せて貰おう」 開けられていない酒瓶を指して問う藤乃に、芹沢は軽い口調で返した。 要は藤乃が、この酒瓶を一気に飲み干したら近藤の手落ちは許してやる、と芹沢は言うので ある。 「許してやって下さい、芹沢殿!飲んだ事の無い者に、これ程の量を飲ませるのは!!」 「近藤氏、今貴殿の連れが忠義を示そうとしている。止めて差上げるな」 急性アルコール中毒を恐れ、近藤は必死に懇願するが、聞き入れて貰えなかった。 その傍らで藤乃は瓶の栓を開け、両手でしか支えられない程の大瓶の酒を一気に飲み干す。 「……不味い……」 「天晴れな飲みっぷり、ますます気に入った!今度は私用で共に飲みに行きたいものだ」 藤乃が酒瓶を空にするのを見届けると、部屋に移動する為立ち上がりざまに芹沢が口を開く。 「待ちな、コレは返す」 酔った為、口調が変った藤乃は空になった酒瓶を投げて返し、受け取った芹沢は一つだけ問うた。 「おめぇ、人を斬った事は有るか?」 「……無い……」 「(ほう、面白くなりそうだ)縁があれば、また会おう」 そう言うと芹沢は意味深な笑みを浮かべ去って行く、その後、藤乃は近藤・土方から説教を 受けたが、まぁ何はともあれ、これにて一件落着となった。 京都入りして六日後、壬生村新徳寺で激論を飛ばす清河の野望が明かされる。 最初は上洛する将軍警護の名目で集めたが、実際は浪士組を乗っ取り勤皇兵とする策略であった。それに納得しなかった近藤一派は独立し、元々清河が気に入らなかった芹沢も一派を 上げて独立。会津の手を借り、八木家に屯所を構え、会津藩御預壬生浪士組と名乗った。 これが、天下の新撰組の前身である。 八木家に屯所を構えて数日後の夕刻、何時もの如く酒が入った芹沢から博打に誘われた。 「藤助!おめぇ、勘が良いらしいな。賭博はやるのか?」 「藤之助ですよ、芹沢先生。えぇ、稼いだ分全て勘定方に納めています」 この時はまだ、給料が与えられずその為、藤乃は持ち前の勘の良さで生計の足しにしていた。 「これから行く、沖田も連れて一緒に来い」 「(何故、総司まで?)解りました、お供します」 別段断る理由も無く、沖田まで連れて行く事に一抹の疑問を抱いたが気にせず受ける。 場所は変って人通りの少ない荒れ寺に、今回の賭博場は開かれていた。 今夜も藤乃の勘は冴え渡り、負け無しの全勝を収めて行く。 芹沢は藤乃を使って一通り荒稼ぎさせた後頃合を見計らい引き上げようとした。 「止めろ!刀を下ろせ、死ぬだけだぞ!」 が、相手側がそれを許す筈も無く負けて腹の虫が収まらない客も含め、大人数が有無を言わさ ず藤乃に斬りかかる。初めての斬り合いに刀を抜く勇気が無い藤乃は、持ち前の俊敏さで刀を 避け、相手に警告するが如何やら手を緩めては貰えそうに無かった。 「藤助、こいつ等全員おめぇ一人で相手しろ」 「芹沢先生!僕が相手をします!!」 藤乃を気遣い沖田が前に出ようとするが、芹沢の部下に取り押さえられた。 「死ね!」 『死ね!』 自分に斬りかかって来たゴロツキの言葉が奴の声と重なる。 その言葉を最後に周りの音が一瞬にして消え、世界が動きを失い、何もかもが無へと化した。 「クスクス。さぁ、命賭けのゲームを始めましょう♪」 無意識に出た自分の笑い声と言葉を最後に、藤乃の記憶は途切れた。 「……藤乃、さん……?」 次に藤乃が意識を取り戻したのは、驚きを含んだ沖田の呟きであった。 沖田が一人でいる所を見ると、満足した芹沢は部下を連れて先に帰ったのであろう。 「私が……?」 ――血生臭い……―― 「これ全部……?」 ――生温かい……―― 「殺した……?」 ――気持ち悪い……―― 「これが、人を斬ると言う事……」 ――楽しかった……―― 「嫌…嫌だ。違う、殺したかったんじゃ無い。楽しい筈無い……じゃあ、何故私は笑ってるの?」 藤乃は無意識に自分が皆殺しにしたのであろう大量の死体の中央で、血塗れになった愛刀を 見える様に月に照らした。 汚れた刀が綺麗に思えて、肉を斬った感触が気持ち悪くて、恐ろしさの余りに体中の力が抜け、 座り込む。 「……あ……あぁ……あははははは……殺した。私が、殺した……」 血で赤黒くなった自分の両手を見詰め、藤乃は力無く泣きながら笑った。 「藤乃さん……貴女の、せいじゃない……!」 ――……あぁ、彼女が壊れてしまった……―― 泣きながら笑う藤乃を痛々しくて見ていられず、沖田は後ろから力強く抱き締めた。 「しっかりして下さい!しっかりして下さいよ……藤乃さん……」 狂気して泣き叫ぶ藤乃に、猫の如く腕を引っ掻き回されても沖田は抱き締める腕は緩めない。 『如何だ沖田、惚れた女が壊れていく様を見るのは?』 「……如何してバレたんだろ……」 去り際に耳打ちされた芹沢の言葉が頭から離れない、沖田の頬にも涙が滴り落ちる。 沖田の耳に、ぬえ鵺のな哭き声が聞えた気がした……。 翌日、体調不良を理由に自室から出て来ない藤乃を気遣い、近藤と土方を中心に試衛館の 仲間は昨夜共に帰って来た沖田に経緯を聞き出す。 この時から近藤派と芹沢派の間に衝突が度々起こり、溝が出来始めた。 同年八月、浪士組の名が知れ渡れば知れ渡る程、それに比例して芹沢の乱暴狼藉が目立ち始め る。 同年四月にも大阪に行った折、無礼を働いたと言う理由で力士と衝突。祇園の角屋では芸妓や 舞妓の礼儀がなっていないと言い大暴れ。八月には豪商家の一つである生糸商大和屋が借金に 応じなかったと言う理由で、店に大砲を打ち込み火をつけた。 「野郎共!どんどん燃やせ、俺が許す!!」 隣の商家の屋根から酒瓶を片手に、芹沢が大声を張り上げる。 「お止め下さい、芹沢殿!」 軽蔑の眼を向けている仲間を宥めながら、何度か近藤が下から声を張り上げる。 「駄目です、近藤先生。火消しも奴等に邪魔されて手が出せないでいます」 大和屋の様子を見に行っていた藤乃が近藤に報告した。 「(奴も、もう終りだな……)どのみち、芹沢を説得する他無いようだぜ?」 その報告を聞いた土方は渋い顔を芹沢に向け、隣に居る近藤に言う。 では自分が行こう、と近藤は動くが、その前に藤乃が一早くハシゴを上り芹沢に近付いていた。 「芹沢先生!」 「あん?……ほう、やはり近藤氏はおめぇを出して来たか」 芹沢は酒瓶の口から酒を飲みながら、嬉しそうに藤乃の方に向いた。 「商家への焼き討ちを止めて下さい」 「……オイ、何だその眼は?え?」 鋭い眼光で自分を見据える藤乃が気に食わず、芹沢は脅しのつもりで鉄扇を取り出す。 「焼き討ちを止めて下さい」 「その眼を止めろと……言っているだろ!!」 言う事を聞かない藤乃に腹を立てた芹沢は、持っていた酒瓶を藤乃の顔に目掛けて投げ付け、 酒瓶は藤乃の右目に見事命中して割れる。 それを見ていた近藤一派が黙っている筈は無く、何人か藤乃の援護に向かおうと動き出した。 「行くな!今はフジを信じて任せるんだ……!」 近藤は視線を藤乃に向けたまま皆を一喝するが、無意識の内に唇は噛み締めていた。 「(痛いなぁ、瞼が切れたじゃん)焼き討ちを止めて下さい、芹沢先生」 右目から血を流しても藤乃は怯む事無く、芹沢に訴え続ける。 ついに芹沢は立ち上がり、抜刀した刀の剣先を藤乃の眉間に向けた。 それでも藤乃は怯まず、無言の睨み合いが続いたが、突然芹沢が大声で笑い出す。 「これでこそ、命賭けの誠と呼ぶに相応しい……興が削がれた!野郎共、帰ぇるぞ!!」 それだけ言うと芹沢は部下を連れ引き上げて行った。 藤乃としては喜ぶべき所なのだが、二度も試された事もあり、何だか複雑な心境であった。 下から仲間が、一人一人お疲れ≠ニ言ってくれるのが心なしか嬉しく感じる。 ハシゴを使って降りる途中、体が宙に浮くのを感じるのと同時に後ろから土方の声がした。 「よく頑張ったな、藤乃」 体が浮いた原因は降りている最中、土方が後ろから抱き上げただけであった。 「土方さん!?えぇ、頑張りましたよ。右目は血だらけですけどね」 「藤乃君、君は少々無茶をしすぎだと思うよ」 照れ隠しで笑う藤乃に山南が注意を促しながら、持っていた布で怪我した目を止血してやる。 「いたたた、もっと優しくして下さいよ山南さん……」 「フジ、お手柄だったな……と言いたい所だが、この馬鹿者。こんな無茶して」 今度は近藤に軽く小突かれる、一番の功労者なのに踏んだり蹴ったりな藤乃であった。 「すいません、近藤先生。先生ならもっと上手く説得出来た物を、差出がましい事にこれが 精一杯でした……」 「でも、被害の拡大は食い止められた。ありがとう」 「え…?そんな、私。先生の邪魔をしたのに……勿体無いお言葉です……」 思いもよらなかった近藤の言葉に、藤乃は嬉しさの余り目尻が熱くなるのを感じた。 だが、この事件により少々のいざこざは近藤への顔立てとして目を瞑っていた容保公が、 芹沢暗殺を近藤に命じる事になったのは解りきっていた。 同年九月、局長の一人新見錦を法度違反により遊郭の一室にて強制的に切腹させる。 翌日、雨が降り頻る夜中に芹沢一派の殲滅を計画していた近藤派は新見の追悼と新撰組の 繁栄の名目でささやかな酒宴を設けた。狙い通り、泥酔した芹沢は先に屯所に戻り後は 討伐隊が寝込みを襲う事になっている。 討伐隊の土方・山南・沖田・藤乃が静かに宴席を出た。 「いいか、卑怯と思うな。手筈通りにやれ」 雨が激しく降り頻る中、芹沢の寝室の前で土方が後ろに居る三人に向かって言った。三人が 頷く事で合意すると静かに戸を開け入り、沖田が布団に入っているであろう芹沢に向かって 刀を突き立てるが手ごたえが無く、まさかと思い掛け布団を引き剥がすと折り畳まれた座布団 が出て来た。 「くくく…まさか、本当に来るとはな」 驚いて辺りを探す討伐隊に、笑いながら芹沢とその女お梅が隣の部屋から出て来た。 「気付いていたのか」 「あたりめぇだろ、おめぇが珍しく俺に愛想良くするからな。何かあると思っていたら案の 定だ。新見の次は俺の番ってか?」 悔しそうに舌打ちをしながら言う土方を嘲笑いながら芹沢が返した。 「えぇ、貴方は少し乱暴すぎた。かつての栄光など、もう見えやしない……」 一歩前に出た藤乃が静かに言い放ち、その言葉に芹沢から一瞬笑みが消えた。 「ちょうどいい、俺ぁ血を被った事が無かったおめぇが嫌ぇだったんだ。おめぇが俺の相手しろ」 そう言うと芹沢は抜刀しつつ、自分の討伐に藤乃を指名してきた。 「奇遇ですね、私も貴方が嫌いだった。けど感謝はしていますよ、貴方は私を真の人斬りにした」 その言葉を聞いた沖田が一瞬、顔を曇らせた。 「藤乃君!挑発だ、乗ってはならない」 芹沢の挑発に乗る藤乃を山南が止めに入るが、時すでに遅く、藤乃は芹沢に特攻をかけ、芹沢 は隣に居たお梅を突き飛ばし応戦する。暗い室内に、雷鳴と共に刀がぶつかる金属音が鳴り響 いた。 しかし地の利は藤乃に有り、体が大きい芹沢は室内戦に苦戦を強いられる。その上、芹沢は力 強い大技を得意とするのに対し、腕力が余り無い藤乃は相手の威力を殺すカウンター技が主力 であった為、芹沢にとって最も戦い難い相手であった。 「芹沢さん、もう観念したら如何だ?アンタ、日頃の運動不足が祟って息が上がってるぜ?」 たった数分で殆ど体力を削られ、近くの文机に足を取られた芹沢に土方が笑いながら嫌味を放つ。その言葉に言い返そうとした芹沢に隙が出来、すかさず藤乃が背中を斬り付け芹沢がうめ いた。 「おっと、余所見は禁物だぜ芹沢さん。コイツは俺が躾た剣士だ、油断していると死ぬぜ」 「くっ、おのれ土方〜……」 覚悟を決めたのか、芹沢はそう一言唸ると壁を背に座り込んだ。 「芹沢先生、ご自分で切腹なさいますか?」 目の前に座り込む芹沢に向かい、刀を下ろした藤乃が静かに問う。 いくら自分の嫌いな相手でも少なからず尊敬の念はあったので、出来れば武士として死なせて やろうと言う藤乃の気遣いが表れていた。が、芹沢はその気遣いを鼻で笑い拒む。 「はっ、今更こんな荒くれ者を武士扱いすんじゃねぇ……討ち取れ……暗殺てぇのは、自分で 殺して初めて意味を成す。だからおめぇは、何時まで経っても人斬りになれねぇんだ」 「……最期のご教授、有難う御座いました」 そう言いながら藤乃は一旦刀を鞘に納め、芹沢が苦しまない様一瞬で首を刎ねる。 それを見たお梅は声を荒げながら芹沢に泣き付き、その光景を藤乃は無表情に眺めていた。 「……やナイ……あんたは女やナイ、鬼や!血も涙も無い唯の人斬りや!!」 一頻り泣いたお梅は、有らん限りの憎しみを込め後ろに居る藤乃を睨み付ける。 「あんたは女として、男を愛する資格などナイ。幸せなどさせへん、ウチら男を殺された女が 邪魔したる。あんたが死ぬまで、地獄の底で恨み続けたる……覚悟しぃや……」 お梅は口元を吊り上げそう言うと懐から小刀を取り出し、自分の喉を掻っ切った。 「惚れた男の為、自ら死を選んだか。成すべき事はやった、引き上げるぞ」 芹沢一派の壊滅を見届けた土方がそう言うと刀を納め、さっさと自室に帰って行く。 その跡を心配そうに藤乃を一瞥した山南が続き、沖田と藤乃も部屋を後にした。 雨が激しく降り頻る中を藤乃が一人佇む、不意に自分に降りかかる雨が止んだ気がして、 少しだけ上を向くと開かれた傘の下に居る事に気付いた。 「泣いているんですか……」 「泣いてない……唯、情け無い自分を恥じているだけ」 後ろから聞えて来た沖田の言葉に、藤乃は素っ気無く返した。 「今日だけ……今だけなら泣いても良いですよ、雨が全てを隠してくれますから」 そう言うと沖田は後ろから腕を回し、自分の袖で藤乃の顔を隠してやる。 「悔しいなぁ〜…私は、あんな女とは違う。一生男の言い成りになるなんて、死んでも嫌よ。 例え怨まれ様と構わない、その怨嗟意地でも背負って生きてやる……詰らない事を聞かせたね」 「構いませんよ、僕も好きで聞いているんですから。明日からは、泣かない鬼で居て下さい」 沖田の優しさと夜中である事に感謝し、雨音に紛れて藤乃の口から静かに嗚咽が零れた。 後にこの事件は長州側の手による暗殺と処理され、新撰組は近藤一派を主体とした部隊に変わる。 新撰組、繁栄前の出来事であった。 以上が、小松藤乃の過去と呼ぶべき記憶である。