山南の誠
元治元年(1864年)十月、新撰組の全盛期とも言える第二期時代に江戸から伊東甲子太郎 が数人の部下を引き連れて入隊して来た。 「皆、俺の留守中ご苦労だった」 江戸から戻った近藤が、門前で出迎える隊士達に朗らかに笑った。 「近藤先生、お帰りなさいませ!」 近藤の帰営を聞き付け、藤乃は満面の笑みを浮かべて駆け寄って来た。それに気付いた近藤も 妹分のタックル紛いの抱擁に備え、両手を広げ、足に力を入れる等をして衝撃に備えるが、 その二人の間を人影が遮る。しかし、藤乃は近藤の前に違う人物が居るとも知らずに抱きついた。 「……ん?先生、いつ、お香をお着けになったんですか?」 「ふふ、その様な熱烈な歓迎、大変嬉しく思いますよ医学の姫君」 ふと、藤乃が疑問に感じていると頭上から聞き覚えの無い声が返って来た。 「すっ、すみません!人違いでした!!」 その時、初めて人違いに気付いた藤乃は、体内から血の気が失せるのを感じつつ慌てて離れた。 「おや残念、医学の姫と謳われた貴女からの抱擁は、ちょっとした自慢話になるのですがね」 手に持っていた扇子を口元に当てながら、見知らぬ男が微笑した。 「フジ、この方が我等と共に京を守って下さる伊東甲子太郎先生だ」 伊東の乱入により、行き場を失った両腕を組み、誤魔化しながら近藤が説明した。 「初めましてだね、姫。局長殿のご好意により、新撰組の参謀を任された伊東甲子太郎です」 そう言いつつ理論派の伊東は、愛用の扇子を口元に当てたまま上品に笑う。 こうして真新しい門出を迎えた新撰組に再度内輪揉めが起こるなど、知る由も無かった。 元治二年(1865年)二月の早暁 新撰組総長、山南敬助が突如行方を眩ました。 「山南さんが居なくなって、もう三日……何やってるんだ、あの人は!」 「左之、落ち着け」 局長室に集まっていた原田が焦りから来る怒りを壁にぶつけ、それを永倉が厳しい声色で諌 める。 事の重大さに、局長室に集められたのは試衛館時代からの古株だけであった。 「どうしよう…このままじゃ、山南さん脱走に―――………」 「しっかりしろ平助、同門のお前が信じないで如何する」 青白い顔をして呟く藤堂に近藤が優しく諭すが、場の空気が変わる事は無かった。 そんな折、別所で監察方からの報告を受けた土方が戻って来た。 「あの人の居場所が割れた、近江(現在の滋賀県)の大津に居る。追跡には―――……」 土方は簡単に報告すると、追跡者を選ぶ為周囲を見渡した。 「私に行かせて下さい!」 「駄目だ、追跡には総司に行かせる」 立ち上がって志願して来た藤乃に、土方は有無を言わさず斬り捨てる。 追跡命令を受けた沖田は、無言のまま足早に部屋を去って行った。 「何故!?私では、取り逃がすと思っているんですか!?」 「あの人に、お前を斬らす訳には行かねぇんだ!何故それが解らねぇんだよ、お前は!」 沖田が出て行った後、納得出来ない藤乃は土方に詰め寄る。 が、土方は眉を顰め、藤乃を怒鳴りつけた。 「あの人に限って殺す事は無くても、足の一本でも傷付けりゃ時間稼ぎになる。斬りたくない 相手を斬らせた上、是以上罪を重くさせたいのか」 土方は断腸の思いで声を絞り出すと、自室へと去って行く。 藤乃はその姿を黙って見送りつつ、浅はかだった自分を心から恥じた。 その後抵抗は無かったのか、沖田は無傷の山南を連れ、翌日の早朝には屯所へと帰って来た。 脱走と言う重罪を犯した山南は、断腸の思いの近藤から切腹を言い渡され、奥座敷へ移される。 「山南さん」 突如、控え室の奥座敷の襖が開き、藤堂が永倉と原田を引き連れて静かに入って来た。 「へ、平助……!?永倉君、原田君も如何して此処へ?」 「皆で、山南さんを逃がす準備をしていたんですよ」 切腹を待つだけの山南は、思いもかけない再会に驚きつつ問うが、答えたのは違う人物であった。 「藤乃君……沖田君まで!?」 山南のド肝を抜いたのは、藤乃の答えでは無く、自分を追って来た筈の沖田であった。 これについては、山南の追跡に沖田を指名した土方の配慮か、はたまた追跡した沖田の独断か。 その辺りは、現在歴史の闇へと葬られている。 「いや……折角だが、君達の好意は受け取れない」 山南はすぐに元の穏やかさを取り戻し、笑顔で首を横に振りつつ言った。 次々に来た皆からの疑問の声を手で制し、山南は続ける。 「私は新撰組の方針に疑問を抱き、絶望した。勤皇の志の下に集まった我等が成した事は、 唯幕府の爪牙となり、傀儡の如く多くの尊き命を奪うだけ。それが、私には耐えられな かった」 「山南さん、アンタずっと一人で抱え込んでいたんだな……」 今までその悩みを打ち明けてくれなかった事に落胆しつつ、永倉が静かに答えた。 「いや、一人ではないよ。私は一足先に逝くけれど、君達は己の信じる誠を貫きなさい。 微力ながら、草葉の陰から見守っているよ(私が居なくとも、伊東さんが新撰組を変えてく れる)」 山南は一人一人見渡しながら言うと、立ち上がる。 その際一瞬だけ思い詰めた顔をしたが、それに気付いたのは藤堂のみであった。 「介錯は……そうだなぁ〜沖田君、君にやって貰いたい」 「心得ました」 「藤乃君、済まないが、君にも私の最期に立ち会って貰いたい」 「解りました」 山南は沖田と藤乃に一言そう言うと、腹を切るべく近藤と土方の待つ別室へと移って行った。 「山南さん、貴方の身に一体何があったんだ」 別室で白い死に装束に身を包んだ山南と向き合った近藤が言う。 その様子を土方と藤乃は近藤の両端から、沖田は山南の後ろで静かに見守っていた。 「特に、何もありません」 「嘘だな、アンタは考え無しに死ぬような男じゃない」 山南の言葉に土方が反論した。 「言っても解らないから言わないのだよ、土方君。江戸を発つ前、君は私に言ったね。武士に なる為なら何でもやると。如何言う意味か解らなかったが、今となっては、あの時に君を止 めるべきだった、それだけが心残りだよ。私は君のやり方が気に入らない、否、許せない! 君は簡単に人を殺す……殺し過ぎる。誰かが意思を示さない限り、この先それは変わらない だろう。だから、私はこの身を持って知らしめる!君が後悔し、方針が変わる事を切に… 願って……!」 そう言った山南は眼前に置いてあった切腹刀を手に取り、前に座って居た近藤に斬りかかった。 「山南さん!?」 「近藤さん、逃げろ!!」 突然の出来事に対処が遅れた沖田と土方が同時に叫び、近藤は反射的に自分の刀に手を掛けた が間に合わないと思い、受身の体勢で硬く眼を閉じる。 しかし、肉を斬る音が聞えたが、痛みが無い事に近藤が静かに眼を開くと、逆光で影となった 細く小さな見慣れた背中がそこにあった。 「……コホッ……これが、理心流の奥義……噂通り、鋭い突きだね。ねぇ、藤乃君?」 手に持っていた刀を取り落とした山南が、口から血を流しつつ自分の懐に居る藤乃に問い掛けた。 「……ごめんなさい、山南さん……私が……私が、貴方を……!」 自分の刀から滴る山南の血を見詰めながら、藤乃が静かに謝った。 その言葉に山南は泣きながら答える。 「謝らなければならないのは、私の方だよ……済まない、済まない藤乃君。私が弱いばかり に、君にこの様な酷い役目をさせてしまった。君に、剣を捨てて欲しかった……池田屋を機  に、江戸へ帰って欲しかった。だが、私は結局君を利用してしまった……頼む、お願いだ藤乃  君。君は生きてくれ、生き延びて幸せになってくれ。伊東さんと共に勤皇を志して欲しい、そ  うすれば、伊東さんが、必ず君を…導いて…くれる…から――……」 そう言って藤乃の頭を一度だけ撫でると、山南はその場に崩れ落ちた。 重い沈黙が室内を包み、沖田は水に濡らして置いた刀を、藤乃は血に染まった刀をそれぞれ 懐紙で綺麗に拭き取ると、鞘に収めた。途端、藤乃はその場に居た堪れなくなり、逃げる様 にその部屋を後にする。廊下の木板がやけに軋んだ。 「貴女の所為ではありませんから!」 後を追って来た沖田が、藤乃の背中を目掛けて叫ぶ。 沖田の言葉に対し藤乃は答える事も無く、背を向けたまま立ち止まった。 「仕方が無かったです、アレは。だから、早く忘れて下さい」 「忘れろ?例え不可抗力でも、山南さんを斬った事実は変わらない!私が、殺したんだ!!」 藤乃の怒鳴り声にも似た心の叫びが辺りに木霊する。 沖田は、ここが離れであった事を少なからず感謝した。 「山南さんは、貴女が殺しただなんて思ってません。寧ろ、そうやって自分を責める貴女を 見たら悲しみます。だから、忘れて下さい。それが、山南さんへのせめてもの手向けです」 「出来ない、忘れられない……江戸から共に上ったあの山南さんを、私は何の躊躇い無く斬っ たのよ?あの優しかった山南さんを、何の躊躇う事無く。平助が許さないよ、きっと……」 肩を微かに震わせ、自嘲しつつ言うと藤乃は走り去る。 沖田はその後ろ姿を静かに見送る他無かった。 山南切腹の知らせは局長の近藤の口から隊士達へと伝えられたが、詳細は一切不明である。 屯所の離れに設けられた自室で、伊東は部下の加納から山南の死を報らされた。 「そうですか、山南さんが。出来たお方だったのに、残念ですね」 「如何しますか、伊東先生。これでは、ますます土方が動き、新撰組を勤皇に出来なくなりま す」 自分達の計画に支障が出る事を案じ、篠原が愛用の扇子を手で玩ぶ伊東に問うた。 「そう案じる事はありませんよ、篠原君。この計画はまだ始まったばかり、まず、山南さんが 自らのお命と引き換えに与えて下さったこの機会を無駄にしてはいけません」 「流石は伊東先生、賢明なご判断です。まだ小数ですが、新撰組幹部にも我等に賛同して下さ る方は居られます。ですよね、藤堂君?」 温和な人柄をした服部が、この場に居る筈が無い人物に同意を求める。 「……えぇ……」 その同意に、無表情で答えた藤堂の心中を察し、伊東が藤堂の決意を知る為に声を掛けた。 「藤堂君、本当に良いのですか?我等としては心強い限りですが、今まで苦楽を共にして来た 仲間と別れる事となるのですよ?」 「構いません、俺は今の新撰組の方針に付いて行けないんです」 「解りました、藤堂君には今まで通り幹部職に専念して頂きましょう。我等の忠実な間者として」 藤堂の決意を確認した伊東は玩んでいた扇子を閉じると、藤堂に向けて言い放った。 「承知しました」 伊東からスパイの任を受け、藤堂は深々と頭を下げて承諾した。 ふと、何かを思いついた服部が、温和な口調で伊東に意見を述べる。 「伊東先生、この機に小松君もこちらに引き入れては如何ですか?新撰組の実権は、ほぼ彼女 が握っていると言っても過言ではありません。それに、藤堂君も一層任に身が入るでしょう」 「ふふっ、私も同じ事を考えていました。確かに新撰組に限らず、彼女の影響力は強大です」 「異国留学をして才能を伸ばさないのは、ひとえに刀に固執しているからと専らの評判です」 伊東の右腕を担っている部下の内海が、何処からか仕入れてきた噂を報せた。 「刀で縛る近藤と土方は、彼女が持つその価値をつゆ知らない。これぞ正に井の中の蛙 外を知らない彼女が不憫でなりませんよ」 「俺が説得します。あいつ、根が優しい奴だから説得すればきっと来てくれます」 憂いに満ちた瞳を伏せつつ言う伊東に、藤堂が名乗りを上げた。 「そうですね、会って日も浅い我等が出るより、ずっと良いでしょう。この件、君に一任します」 思慮深い藤乃の事を考え、伊東は藤堂に任せる意を示した。 「では、俺は戻ります。余り長居をすると、怪しまれますから」 そう言うと、藤堂は一礼して去って行った。 「クスッ、藤堂君は働き者ですね」 口元を吊り上げ、意味深げに笑った伊東の言葉を藤堂は知らない。 一方、気晴らしの為、外へと出て行った藤乃は無意識に壬生寺へと足を運んでいた。 境内に入った直後、藤堂が一人で泣いている所を見てしまい酷く後悔するが、それでも近付いた。 「平助」 言わなければならない事があった藤乃は藤堂の目の前に立った時、勇気を出して声を掛けた。 「……今さ、取り込んでるの見て解らない?」 今は誰にも会いたくなかった藤堂は、顔を伏せたまま素っ気無く答えた。 「ごめん、ごめん平助」 「何で、アンタが謝るの?」 突然、謝り出した藤乃に未だ顔を伏せたままの藤堂が言った。 「……私が、山南さんを殺した」 無表情で言う藤乃の言葉に、藤堂は突然の事に何も言えず、顔を勢い良く上げ眼を見開いた。 「私が斬ったんだよ、山南さんを。だから怨むなら―――………」 「ちょっと待てよ、如何言う事だよそれ。あの人、切腹したんだろ?介錯は予定通り総司で…」 近藤の話と矛盾して付いて行けない藤堂は途中待ったを掛け、藤乃の話を中断させた。 「違うよ、私が殺したの。だって、許せなかったんだもの……あの人は、近藤先生を裏切った。  だから私が殺した、先生に刃向かった反逆者に、切腹なんかさせる事ないじゃない」 「お前っ!?今、自分が何を言ったのか解ってんのか!?」 平気で酷い事を言う藤乃に腹を立てた藤堂が、藤乃の胸倉に掴みかかる。 「何、怒った?でも、本当よ。山南さんを殺したのは近藤先生じゃない、土方さんでも無い 総司でもない、私なんだ。怨みたければ、怨むと良い。どうせ、私を殺せる訳が無いんだから」 藤堂は見下した様に笑って言う藤乃を無言で睨み、少しずつ刀に手を伸ばした。 「藤堂君、先程永倉さんが呼んでいた」 いつの間にか藤堂の隣に立っていた斎藤が、刀の柄を握った腕を掴む。 「止めんな、ハジメ!こいつが…こいつが、山南さんを……!」 「止めはしない。ただ、君と彼女との絆は、言葉一つで崩れる程薄い物なのか?」 眼を充血させ、声を震わせて怒鳴る藤堂の手を放した斎藤は静かに見据えた。 「辛いに決まってんだろ…俺等、仲間なんだぜ?だから余計、さっきの言葉が本気に聞えんだ」 藤堂は涙で頬を濡らし、藤乃を睨みつつ乱暴に胸倉から手を放すと走り去って行った。 「土方さんからだ余計な真似はするな≠セそうだ」 今度は藤乃の方を向き、警告混じりの伝言を伝えた。 「好きで生きている訳じゃ無いよ、私を殺してくれる人が居ないだけ。私は、刀に生きたいの」 誇り高くね≠ニそう最後に呟くと藤乃は歩き出し、その姿を斎藤は何も言わず、唯見送った。